イラクでは昨年以来の政治的混乱、原油価格の下落に加えて今回のコロナウィルス禍による経済的打撃を受けている。米軍侵攻によるサダム・フセイン政権の崩壊以来、新生イラクは幾多の政治的、経済的、軍事的危機に見舞われてきたが、今回の危機は根が深く、複合的なもので、これまでで最も深刻な危機であろう。エコノミスト誌4月11日号の解説記事‘Dark times ahead; The risk that Iraq might fall apart’は、イラクは国家的な崩壊の危機に直面しているとの極めて悲観的な見通しを提示している。
現象的には、昨年の反政府運動以来の政治的混乱、原油価格急落による経済的打撃、米国とイランの対立の激化、そして今回のコロナウィルス危機という四重苦が重なった。こうした中、もしISの再活動が本格化すれば、今のイラクの体力では持たないかもしれず、上記エコノミスト記事の見通しは大袈裟過ぎるとは言えない。
今までの危機と現在の危機とが異なる背景(原因)は大きく言って2点ある。1つはサダム以降のイラクの基本的統治システム(ガヴァナンス)が崩壊しつつあることである。これまでのポスト・サダムの統治はシーア派、スンニ派、クルド人の三派の政権参加により、それぞれの派に属する政党の間でポスト、権益を分け合い、イラクを統治してきた。一種の談合政治であり、この統治システムに対しては、腐敗の温床、非能率、非効率との批判が強く、それは相当程度事実ではあった。他方、長く独裁政治が続き、民主主義の経験が殆どなかったイラクにおいて曲がりなりにも民主主義的な統治を維持してきたことも否定できない。昨年の反政府運動はこのような統治に対する挑戦であったが、これに代わる有効なシステムはそう簡単には実現できるものではなく、これまでのシステムを破壊し、一種の力の真空状態を生み出した。シーア、スンニ、クルド、それぞれの派の中でも分裂が進み、イラク政治は、いわば液状化状態にあると言えよう。昨年11月にアブドルマハディ前首相が辞任して(現在は暫定首相)、次々に首相候補が大統領により指名されて組閣の為の工作を行ってきたが、1人目のAllawi, 2人目のal-Zurfi(元ナジャフ県知事)は何れも組閣に失敗し、最近、3人目のal-Kadhimi(国家情報庁長官)が候補に指名された。再び組閣に向けての交渉を行うことになるが、目途は全く立っていない。
2つ目は、相互に対立しながらも安定した統一イラクの維持に共通の戦略的利益を有し、最終的には暗黙の了解で政権の樹立、維持を支援してきた米国とイランの亀裂が決定的となり、イラクの諸勢力間の妥協と均衡を実現することが出来なくなりつつあることである。イラクのシーア派、特に民兵組織に絶大な影響力を有していた、革命防衛隊クッズ部隊のソレイマニ司令官が殺害されたこと、米国による厳しい制裁と現下の新型コロナウィルス問題で苦しんでいる状況にあっては、イランが強い影響力を行使してシーア派内の調整を行うことを困難なものにしている。その結果、ISとの闘いにおいて台頭したシーア民兵組織(PMF)民兵組織が分裂しつつある。
米国についても、イラン(親イラン民兵組織)との衝突に精力を削がれ、3派をまとめ、新政権を樹立させるためにどれだけ政治的影響力を行使できるのか、行使する意思があるのか、心もとない状況にある。駐留米軍については、イラク側との戦略対話が6月に予定されており、その結果が注目されるが、残留するとしてもクルド地域に重点的に配置されることになるのではないか。
上記エコノミスト記事は「指導者の不在、支援国がそれぞれの利益追求に忙殺する中で、いったい誰がイラクをまとめていくのだろうか。最高宗教指導者のシスターニ師は政治への関与を避けている。中央政府による資金援助が停止されれば、クルドは独立への動きを復活させるかもしれない。スンニ派指導者も分離についての話を始めている。政治家や地域研究者はイラクがどのように崩壊するのかについては意見を異にするが、多くは時間の問題に過ぎないと考えている」と警告する。イラクは、この警告の通り、統一国家として存続することが出来ず、シーア、スンニ、クルドがそれぞれの地域で独自の国家樹立を目指すという分裂の道をたどることになるのか。それは、イラク国内のみならず、イラン、シリア、サウジ、トルコなどの周辺国にも多大な影響を及ぼす事態であり、これを防ぐための外国(特にイラン、トルコ)による干渉やギリギリでイラク国内の求心力が働く可能性もあり、簡単な話ではない。ただ、国家分裂の現実性が議論されるほど深刻な危機に直面していることは間違いない。
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