── 近年、国の補償は膨らみ続ける傾向にあります。
齊藤 「避けられない国民の損失は国が負担するもの」といった意識が、政府側にも国民側にも広まっていったことが背景にあると思います。1995年の阪神・淡路大震災がそのきっかけでした。それまではなんとか財政規律を保ってきたのですが、政府は震災の補償を理由に、本来法律では許されていない特例(赤字)国債に大きく依存して、なし崩し的に国債の発行を続けてきました。その後の山一證券の破綻に端を発した97~98年の金融危機、08年のリーマン・ショックと、危機が訪れるたびに国の補償は、その範囲を広げることになります。
阪神・淡路大震災のときには、住宅のような、個人の財産は補償の対象として認められていませんでしたが、東日本大震災ではそれらを含め、私財の被害に対しても国の財源で賄うことを決定しました。
土居 特に政治家には「国民に施すことこそが自らの役割」と認識している方が多いと思います。地元に何らかの〝施し〟をすることで、自分は政治家として立派な仕事をした、と。だから、東日本大震災のときも「私有財産に対して国が補償しないのはいかがなものか」と主張し、それが通れば、政策転換を実現したことを自らの手柄とする。けれども、その補償を賄うために国の借金が増えたとしても「私が政治家をしていた代で政府債務残高が倍になりました」と胸を張る人はおそらくいないでしょう。
── 本来であれば、その点は表裏一体のはずです。
土居 印象的だったのは、通常国会閉会後の6月18日の記者会見で安倍晋三首相(当時)は「(事態収束後)歳出、歳入、両面の改革を続けることによって、財政健全化もしっかりと進めていく考えであります」と一言おっしゃった。一国の宰相が自分の代で政府債務を膨らませてしまったという後ろめたさからくる発言だったと思います。
── 財政健全化を放棄すれば、どのような事態になるのでしょうか。
齊藤 国が負った借金はいずれ、どのような形であれ我々国民が返済しなければならず、政府や日本銀行が〝打ち出の小槌〟を持っているわけではない、ということです。現在のようなゼロ金利が安定的に続けば借金が積み重なっても耐えられると思いますが、何らかの形でその環境が崩れれば、短期間で物価水準や長期金利の上昇が起こります。そのプロセスが始まったら一挙に、です。 物価上昇によって相対的に貨幣の価値が下がれば、国債の価値も目減りし、実質的に国の借金は圧縮されることになります。しかしその代償として国民は購買力を奪われ、借金返済のために強制的に税金を徴収されたことと同じになります。例えば、戦後の45年~50年の5年間で100倍近くの物価上昇により、ほとんどの戦費を償却したことと同じことが、物価高騰の度合いはかなり小さくなるでしょうが、起こるかもしれないのです。だからこそ、財政危機への対応については、現在世代が将来世代に対して「責任」を負う形で合意形成していかなければならないのです。
── どのようにして「責任」を果たすべきなのでしょうか。
齊藤 徐々に、しかし、確実にやらなければならないことは、しんどいことですが、歳出に応じた負担を受け入れることです。もしそれを怠れば、終戦後のような形で強制的な返済を迫られることがあるということを、我々はしっかりと認識すべきです。