2024年4月27日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2021年4月28日

先端技術ではなく、ローテク農法に逆戻り

 その反省からというわけでもないのだろうが、文化大革命期の『永做一朶向陽花 中小学学生作文選(一)』(人民教育出版社、新華書店、1975年)では、食糧増産の核として社会主義社会の先端技術ではなく、生態系に沿った旧来のローテク農法が持ちだされる。ちなみに「永做一朶向陽花」の7文字には、永遠に“毛沢東のよい子”になろうとする決意が込められている。

 たとえば四川の小学校4年生が記した「野糞を拾う」という詩は、「細い青竹しなやかで、おじさんは糞を集める籠を編む。/野糞を拾って支援すりゃ、米も木綿も豊作だ。/籠を背中にゆっくりと、歩けば籠は野糞の山だ。/どちらに担いで行きますか、はいはい向陽溝の生産隊ですね」と、今風に表現するなら“エコ農法の妙”を謳いあげる。

 「細い青竹」で編んだ籠を背負って「歩けば籠は野糞の山」。それを「向陽溝の生産隊」に届けて有機肥料に。かくて「米も木綿も豊作」となる。これぞ環境にやさしい自然農法であり、現在の国連が推奨する「SDGs(持続可能な成長目標)」の先駆けではなかろうか。

 幼い心に社会主義への憧憬を芽生えさせたに違いない「奇跡72号」から旧社会にUターンしたような「野糞を拾う」へ。この落差から社会主義社会への幻滅を抱くようなった“早熟な子供”は、はたしていなかっただろうか。

 『永做一朶向陽花 中小学学生作文選(一)』と同じ1975年、『環境保護文選』(中国建築鋼業出版社)が出版されている。こちらは大人向けだ。あるいは共産党メディアは、長い文革を忌み、疲れ果てた国民の関心を不毛のイデオロギー論議から環境問題へと振り向け、求心力回復へのキッカケを狙ったとも考えられる。

 『環境保護文選』は冒頭で「環境保護は毛主席の革命路線の重要な一面である。人民の健康を保護し、工業と農業の連係を強め、より早く効率的に工業と農業の生産を発展させるうえで、極めて重要な意義を持つ」と高らかに宣言してみせる。

 環境保護工作の深化・拡大を促すため、『紅旗』『自然弁証法』の両理論誌、『人民日報』『光明日報』などの主要機関紙に掲載された関連論文に加え、72年から74年の間に開かれた環境問題に関する国際会議における中国代表の発言を収録したとのことだから、『環境保護文選』は当時の共産党政権における環境問題に関する公式見解の集大成と見て間違いないだろう。

 そこで早速、巻頭論文「環境保護政策を重視せよ」を読んでみる。

 「毛主席と党中央は一貫して環境保護政策を重視してきた。解放以来、国民経済の発展に伴い、我が国の環境は大きく改善された」。だが、「経験が証明しているところでは、工業生産のみを重視し、環境保護に注意を向けなければ、とどのつまり工業生産も増大しない。たとえば腐食性物質を含む廃水、廃ガスを放置した場合、生産設備と工場を破壊させかねないのである」。

 「『三廃(廃水、廃ガス、産業廃棄物)』は水源を汚染し、水質を悪化させ、製品の質量を劣化させるばかりか、製品によっては生産不能状態をもたらしかねない。『三廃』は労働者の健康を侵し、生産効率を低下させる」。

 ――このように主張を要約してみると、なにやら現在の超破滅的な環境問題を先取りしているようにも思えてくる。かりに「三廃」への対応が継続的に試みられていたなら、環境破壊も現在ほどには劣悪化することはなかったろうに。

 だが時は文革の時代である。致し方ないことではあるが、環境対策もまた政治運動と連動していたがゆえに技術論的に高められることはなかった。それというのも、飽くまでも「環境保護は毛主席の革命路線の重要な一面」だからである。

 たとえば当時進められていた批林批孔運動に結び付けられ、「批林批孔を積極的に推進することによって各レベルの指導者は環境対策の日程を的確に定め、真剣に規定し、広範に大衆を動員する。総合的な利用を大いに進め的確な対策を講じるなら、必ずや新しい成果を挙げることができる。〔中略〕毛主席の革命路線の指導の下、我われは偉大なる社会主義国家を建設しなければならないだけではなく、建設は可能である。同時に広範な人民のために労働と生活に関する快適な環境を創造する」と、肝心の環境問題は非現実的な政治論議のなかで雲散霧消してしまった。

 はたして、どのような視点に立てば批林批孔運動が「広範な人民のために労働と生活に関する快適な環境を創造する」ことにつながるのか。理解に苦しむばかりだ。

 「三廃」を超えて「四廃」の対策を説く論文「総合的利用を喚起する」では、次のように議論が展開される。

 「(ある同志は)“廃材”、“廃水”、“廃ガス”、“廃熱”の所謂『四廃』を一括して“廃物”とし、利用不可能なものだとする。〔中略〕形而上学の観点に立てば“廃”は未来永劫に“廃”であり、改造し利用することは不可能だ。だが唯物弁証法の視点では、事物は一定の条件の下で転化できる。だから“廃”を“宝”に転化させることは可能」だそうだ。

 そこで最も重要な「“廃”を“宝”に転化させる」ための技術論議が深められるのかと思いきや、完全に肩透かし。「形而上学の観点」やら「唯物弁証法の視点」やらが議論の進展を妨げてしまうのである。

尻切れトンボ

 結論は、「毛主席のプロレタリア階級革命路線に従って一歩を進め、革命的大批判を深化させれば、総合利用の花は豊かで華々しく開花し、必ずや実り豊かな果実を結ぶ」と、なんとも抽象的で陳腐極まりない常套句に導かれたまま尻切れトンボ。論議は一向に深まらない。

 当時の共産党最高理論誌紙の限界と言えばそれまでだろうが、どうにも真面目な議論とは思えない。形而上学だの唯物弁証法など持ち出さずともトットと具体策を論じ実施すべきだろうが、さにあらず。ということは昔も今も環境問題の現場にはトンと関心なし、ということだろうか。

 ところが「神聖不可分の領土」に直結する海洋環境に話が及ぶと、態度は一変する。


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