土偶の変遷が時代の変遷
本書の圧巻はラスト近くの数章である。
有名な遮光器土偶は縄文晩期(2700年~3200年前)に主に東北地方で製作された。竹倉さんの土偶研究の発端となった土偶であり、モチーフはサトイモだった。
寒冷地では種イモの貯蔵が難しく、腐敗防止の魔除けとしてサトイモの精霊像が作られたのである。
頭部は親イモで、そこから子イモをもぎ取った跡が遮光器状の両目の原型となる。紡錘形の手足は子イモの形。頭頂部のスペード模様はサトイモの葉を表わし、斜め上向きの小さな鼻は、子イモの伸びる葉である。
つまり土偶は、女性や宇宙人ではなく、対象とする有用植物を写実的なモチーフとし、それを顔など人体各部に配置した形態なのだ。
そして晩期の終盤に、遮光器土偶が消えるのと前後して最後の土偶、結束土偶(イネ)と刺突文土偶(ヒエ)が登場する。
結束は頭頂部に、細長い稲束状のイネを乗せ、刺突文は体表に、ヒエを表わす無数の小さな孔があいている。
「土偶の変遷が時代の変遷なのですね。しかしイネの土偶まで作ったのに、縄文人が弥生時代に適応できなかったのはなぜでしょうか?」(足立)
「縄文のイネは陸稲もありますが、それはともかく、食料生産方式の激変が共同体のあり方も一変させたからだと思います」(竹倉)
大陸渡来の弥生人の持ち込んだ水田稲作は、大規模な灌漑工事に依存していた。一握りの権力者による総動員態勢の社会だ。
水田の土地や収穫物を巡って戦争が生まれ、環濠集落ができ、新たなイネの祭祀もそうした社会構造の変化とセットで広まった。
堅果類という森林性の炭水化物に頼っていた縄文人が太刀打ちできない、まったく別次元の社会に移行したのだ。
「この7月、〈北海道・北東北の縄文遺跡群〉が国内20件目の世界文化遺産になります。“農耕以前の定住生活”や“豊かな精神文化”がその理由ですが、東北地方で花開いた土偶文化はまさに世界遺産の物証になりますね。竹倉さんは、1万4000年以上続いた縄文時代の特徴を、改めてどう考えますか?」(足立)
「私は縄文時代の本当のユニークさは、中期以降にトチノミを食用とする技術が確立してから始まると思います。様々な食用資源を利用しつつ、森の炭水化物の利用を最大化して、あれだけの高度な文化を持続させた縄文人は、人類史のなかでも独創的であったといえると思います」(竹倉)
「しかも本書で何度も参照しているように、土偶の発想が現代の“ゆるキャラ”につながっている?」(足立)
「そうです。現在の日本文化のなかにも、土偶というフィギュアを創り出して愛でた縄文人のDNAが脈々と流れているのだと思います」(竹倉)
奇妙奇天烈だと思っていた土偶の姿が、にわかに愛しく人懐かしいものに見えてきた気がした。
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