2024年4月25日(木)

田部康喜のTV読本

2022年2月26日

 日本にバレエがもたらされたのは、ロシア革命によって亡命してきたバレエダンサーたちによる。ロシア人のバレエ団が、来日して「瀕死の白鳥」の公演をしたのは、1922年のことである。バレエの芸術性の高さは、日本人に衝撃を与えた。観客のなかには、芥川龍之介もいた。

バレエを始めた些細なきっかけ

 「なぜ、君は踊るのか」は、日本人のバレエダンサーが、世界を席巻している理由を十分に教えてくれた。習い事の市場において、相対的に大きな人口を抱えるバレエのすそ野が、「バレエ王国」を育てたのである。世界的なヴァイオリンやピアノなどの音楽のコンテストにおいて、日本人の若者たちが上位入賞を果たしている理由もまた、分かる。

 番組のドキュメンタリーが追った、飯島望未は6歳のときに、バレエを始めたのは本人の希望ではなかった。彼女の母が、「姿勢をよくしたい」と願ったからだ。「バレエをやるうちに、誰にも負けたくないという気持ちが生まれた」と、飯島は振り返る。

 バレエ教室に週に5回も通うようになった。そんな彼女に試練が訪れる。中学1年生になったときに、彼女を含めて子どもが4人いるので、「バレエは費用がかかるからやめて欲しい」といわれたのだった。

 「プロになるから、やめさせないで」と、頼み込んだ彼女は、実際に数々の大会で受賞を果たして、奨学金によって、ヒューストンバレエ団に留学する。しかし、プリンシパルへの道は容易ではなく、険しいものだった。

 外国人のライバルたちは、個性を重視しながら競争していた。「表現力を磨こうと思った。バレエが好きだということが支えとなった」と、飯島は語る。

 密着取材のチームの一員が、放った次の質問に対して、飯島は一瞬息をとめ、さらに必死に涙をこらえようとするが、まなじりから、わずかに流れ落ちる。応えるまでにも間があった。

 ――バレエをやっていて、壁にぶつかったり、挫折したりして、次の一歩を踏み出す時にどうするのですか?

 「無理に前を向いて『明日からまた頑張ろう』という気持ちには、私はなれません。でも、日常は進んでいくので、落ちている間でもやることはやらなければならないので、こなしていきます。気持ちはすぐには、受け入れられません。落ち込んで、辛い、苦しい」

 「いつかは、(そうした気持ちを)表現できる。すべての経験がバレエに生きると思っています」


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