ちなみに今月6日にも猪木氏は自身のツイッターを更新し、親交の深いパキスタン大使と面会したことを報告したばかり。徐々に日常生活へ復帰しつつあるはずの猪木氏が創始者であるにもかかわらず、例えセレモニーに出席できなくても一体なぜビデオメッセージすら寄せなかったのだろうか。
昨年大みそかにさいたまスーパーアリーナで行われた格闘技イベント「RIZIN.33」では、ビデオメッセージで大型ビジョンにサプライズ登場し「元気ですかー!元気があれば年も越せる。大みそかは格闘技だということで、RIZINまだまだ盛り上がっていきましょう」「1・2・3、ダーッ!」と会場全体に闘魂を注入していた。それだけに正直に言えば、大きな違和感は残る。
ただ、猪木氏は新日本の経営を完全に離れて袂を分かってから長い年月が経ち、別団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を創立して一時は古巣・新日本と激しく対立したこともあった。どうしても微妙なシコリは未だ拭い去れておらず、やはり距離感は生じたままなのであろう。
それでも見えた数々の「猪木イズム」
とはいえ、新日本の50周年記念日セレモニーを見て、当事者が不在であっても猪木イズムが脈々と受け継がれていることは再確認できた。あのリングに集結した藤波、長州氏、藤原、前田氏ら多くのOBたち、加えてビデオメッセージで登場した佐山氏は猪木氏と深いつながりを持つ闘魂の伝承者である。
そしてセレモニー中、リングサイドを取り囲む現役選手のなかで一人ひとりの入場ごとに観客へ大きな拍手を送るように促していたトップレスラー・棚橋弘至もまた自身のヤングライオン時代、猪木氏にその才能を見定められた〝最後の世代〟の1人だ。
その昔、元交際相手による傷害事件に巻き込まれて被害者となり、重傷を負った際に棚橋は当時会長の猪木氏から「これをプラスに変えてみせろ」と猛ハッパをかけられ、多くのチャンスを与えられるようになった。後にメインイベンターへと成長し、団体の至宝であるIWGPヘビー級王者のベルトを腰に巻き、総合格闘技ブームに押されて〝暗黒時代〟が到来した時もグラつきかけた新日本の屋台骨を孤軍奮闘の形で必死になって支え続けたストーリーラインは記憶に新しい。
もう、この頃になると猪木氏は保有していた株を手放し、新日本と完全決別。それでも棚橋の胸の内に「マイナスをプラスに変える」「苦しみの中から這い上がれ」と言われ続けた猪木イズムの数々の金言が人知れず宿っていたからこそ苦難の時代を乗り越えることができたのは当時の事情を深く知る関係者であれば、誰もが知るところだ。
その棚橋が心底憧れ続けた名レスラー・藤波は言わずと知れた猪木氏の〝最愛〟の直弟子である。飛龍革命を起こした後、1988年8月8日・横浜文化体育館で行われ、60分フルタイムドローとなった猪木氏とのシングル対決は今も伝説の名勝負として語り継がれている。