2024年11月22日(金)

古希バックパッカー海外放浪記

2022年11月20日

信じられないくらい明るく陽気な熱烈親日フィリピーノ

レガスピのホステルのバルコニーからフィリピン富士、マヨン山を望む

 太平洋戦争で百万人(110万人という説もある)ものフィリピン人が犠牲になったといわれている。太平洋戦争では最大の戦争被害国である。ちなみにフィリピンでの日本軍の犠牲は約50万人で大半はマラリアなどの伝染病や餓死である。これらの数字だけでもフィリピンがいかに悲惨な戦場であったか想像できる。

 今回初めてのフィリピン旅を通じてフィリピン人があまりにも親日的であることに驚いた。放浪ジジイはどこにいっても歓待を受けたし、フィリピンの人々の日本への憧憬ともいえる親日的発言に途惑ってしまった。台湾を自転車で一周したときに感じた台湾人の熱烈的親日ぶりに負けず劣らずである。筆者の実感ではフィリピンと比べたら戦争被害が比較的軽微であったマレーシアやインドネシアはこれほど親日的ではない。

太平洋戦争についてあまり知らないフィリピン人

レイテ島オルモック湾に上陸する米軍。航空写真で見ると巨大上陸用舟艇がビーチを埋め尽くしている

 放浪ジジイはフィリピン訪問のあいだ意識的に太平洋戦争における日本軍について地元の人々に聞いてみた。しかし大半の人々の反応は「よく知らない」というものだった。レイテ島の西側の港町のオルモックは1944年10月から12月にかけて日本軍がマッカーサー率いる米軍に対抗するために数十万人の大軍を上陸させた地点である。その後米軍も日本軍を駆逐するためオルモックに大軍を上陸させた戦略拠点である。

 筆者は日米両軍が相次いで上陸したと思われるビーチの周辺の集落で数十人の地元の人々に聴き回ったが、誰も日米両軍の上陸について知らなかった。集落では20代から60代くらいの人たちに聞きまわったが、誰もが「そんな話は知らない」「親からもそんな出来事は聞いていない」というそっけない回答。

 オルモック市立近代美術館の一角の太平洋戦争のコーナーで米軍偵察機が上陸前に撮影した航空写真で確認した。まさしく前日訪れたビーチが上陸地点であった。高さが10メートル以上の巨大な上陸用舟艇がビーチを埋め尽くした写真を見て当時の住民がこの光景を忘れるはずはないと思った。

小学校では子供たちに戦時中の出来事を教える時間がない

 翌日オルモック中央小学校の新学年開始前の先生方による父兄へのオリエンテーションを見物した。オリエンテーション終了後にベテランそうな女性の先生をつかまえて話を聞いてみた。6年生を担当する彼女によると小学校のカリキュラムでは算数・国語(タガログ語)・英語・理科という主要科目で手一杯。

 社会科の時間は週1時間のみ。社会科の中でフィリピンの歴史についてはスペイン支配時代、スペインからの独立あたりが中心という。従って戦争中の歴史は副読本を貸し出して自宅で読んでもらうことくらいしかやっていないとのこと。先生によるとハイスクール(中学・高校)でもほぼ同様らしい。学校で教えないとすれば親や大人たちから聞くしか情報がないことになる。

フィリピン人は過去を恨まず未来志向のポジティブな国民性だから?

 ルソン島南東部の中心都市レガスピのホステルのインテリのオーナー氏の解釈は一理あると思った。

 55歳のオーナー氏は25年ほど前にアラブ首長国連邦で韓国の建設会社に雇われて土木工事の現場監督として働いたことがあった。仕事あとで酒を飲みながら韓国人のエンジニアたちから日本人の悪口を何度も延々と聞かされた。戦争中に日本軍は朝鮮人を虐殺したと大声で口を極めて日本人を罵ったという。オーナー氏は朝鮮が日本の領土であり米国との戦場にはならなかったので韓国人エンジニアの話がつくり話だと思ったが、余りにも韓国人たちが激高しているので黙って聞き流していたという。

 オーナー氏は過去に拘り恨みを持ち続ける韓国人を不幸な国民だと思っているという。「日本軍の戦争中の蛮行は許せないが、日本はフィリピンに対して戦争中の賠償をして謝罪もした。フィリピン人は陽気でポジティブな国民だ。戦後の日本はフィリピンと同じ民主主義国家となった。それゆえ過去の日本人を許して現在の日本人を大好きになったのだ」とフィリピン人の国民感情を説明してくれた。

サガダの米国聖公会教会。19世紀初めに福岡から移住してきた大工棟 梁の山下徳太郎が指揮して建設。日本人学生たちが地元の子供に教えた集会室がある

日本人学生ボランティアは夏休みの子供たちのスーパー・ヒーロー

 ルソン島の山岳地帯の景勝地サガダの宿のオーナー夫婦は子供時代の夏休みが忘れられないと日本人大学生の活動を話してくれた。それは1980年代のことで毎年夏休みになると日本人の10人くらいの大学生の男女がサガダにきて一人ずつ住民の家にホームステイして子供たちに色々なことを教えてくれた。

 まず朝は子供たちを集めてラジオ体操。午前中はバレーボールやバスケットボールを教えてくれた。ボールは日本から持参して帰国するときに町の小学校に寄付してくれた。午後は小学校の教室や教会の集会室を利用して折り紙やニホンゴを教えてくれたという。女将は突然“大きな栗の木の下で~”と覚えているニホンゴの歌を歌いだした。

 レモネード割ジンを飲んでいた旦那は往時を懐かしく振り返り、小学6年の夏休みの思い出を話しだした。「学生のリーダーはシマという男子学生だった。彼らは英語をあまり話せなかったがボディランゲージで十分だったよ。毎日楽しく遊んだよ。工作キット(子供雑誌の付録のようなものらしい)を沢山日本から持ってきて、電池で動くロボットやラジオ(ゲルマニウムラジオか?)を組み立てたよ。こどもたちは日本の先進的技術驚き、日本に憧れたよ。こうして日本と日本人を町中の人々が大好きになったんだよ。」と旦那は熱く語ってくれた。

 「学生たちが戦争中の日本軍が残した日本へのネガティブ・イメージを吹き飛ばした。かれらこそ新しい日本を代表する日本人だと町中の人が思った」と旦那は結んだ。このボランティア活動は1988年頃まで毎夏続いたというが、時あたかも日本経済がバブルの真っ最中に始まり、バブルの終焉により終わったようだ。このような草の根の日本人の活動や日本政府の経済援助もフィリピン人の被害感情を和らげ日本への信頼感の醸成に寄与したのだろう。

日本での就業体験が口コミで伝わり熱烈親日になった

パサイ島イロイロ市郊外の英国聖公会のハイスクール。戦時中は日本軍 司令部が置かれた。地元青年の話では地下室でゲリラ容疑者の拷問が行われたという

 それにしても上記3つの理由だけでは熱烈親日になった背景を説明できない。本編第2回にて触れたように、やはり日本での就業体験が口コミで広がったことがフィリピン人の親日的感情を形成した一番大きな要因ではないか。現状ではフィリピン女性の興行ビザ発行を厳格な審査で制限して、色々と問題の指摘される技能実習生制度でしかフツウのフィリピン人が合法的に日本で就労できないというのは日本にとり大きな損失ではないか。

 故安倍首相は技能実習制度が国会で議論されるたびに「移民政策は絶対に採りません」と保守派への配慮から強調していたが、そろそろ移民政策を導入しないと手遅れになるのではないだろうか。移民政策を前提としてフィリピン人や他のアジア人が安心安全に継続して就労する枠組みをつくる必要があると考えるが如何であろうか。

 同時に永住権付与の条件を緩和すれば現状では米国・カナダ・豪州などに流れている“優秀な途上国の若者”(高度専門職人材)を日本に引き寄せられると期待する。こうして広く門戸を開くことは、日本の産業競争力強化および少子高齢化対策に不可欠と考えるのだが。

以上 次回につづく

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