日本に足りない
教養と論理的思考
瀧口 そうした現状を変えるとすると、新しい世界を知るための社会人の学び直しも重要ですね。最近、東京大学の「メタバース工学部」というプログラムの開講式典に関わらせていただいたのですが、AIなど最新の工学をオンライン上で中高生や社会人が広く学べるということで、意義のある機会なのではないかと思います。また、東大には「東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(東大EMP)」というものがありますよね。
江﨑 東大EMPで教えているのは教養(リベラルアーツ)です。文理問わず、東大の先生たちに自身の最先端の研究を語ってもらう。「エグゼクティブ(上級管理職)」の名の通り、企業の重役や官僚、ベンチャーの経営者などが主な受講生です。興味深いことに、米国では経営学修士(MBA)の人気が下がっているそうなのです。逆に教養を学ぶ人が増えています。
合田 MBAを取れるビジネススクールって、数が多くて飽和状態にありますからね。
江﨑 それに、MBAはあくまでも過去の事例研究(ケーススタディー)を行うわけですからね。一方で教養は、違う学問の話でも「こことここの理屈が同じだよね」と、知見が有機的につながっていって、イノベーションを生み出すための土壌となるものなので、そちらに学び直しの主軸が移っているようです。
合田 最近の日本の「文系・理系と分けるのは間違っていた」という話は、まさにそこの文脈です。米国は教養の教育にかなり力を入れていますよね。
江﨑 日本の教育は一時期、教養を否定してしまいましたよね。本来であれば幅広い見識を得て、その後に専門性を高めていくべきなのですが、学部教育からいきなり専門性を重視するようになってしまった。その点、東京大学や京都大学などは教養の重要性を理解していたので、教える場を残しています。
新藏 教養を学ぶ場もそうですし、論理的思考を学ぶ場も、日本人には足りていません。論理的思考を磨くにはディベートをするしかありませんが、今はむしろ「誰かが責められてはいけない」と、小中学校の学級会の内容も見直され、ディベートの機会が失われてしまっている時代です。ディベートとは個人攻撃のような言い争いではなく、いかに論理の上で言葉のキャッチボールをするかということなのですが、それができない。それに読書感想文もないし、日記もなくなれば、どうやって論理的思考力や文章力を鍛えるのでしょうか。
江﨑 フランスでは、誰かが言ったことに対して、自分の考えは別にして、反対の立場から議論する、というのがある種の文化として根付いているそうです。
合田 米国の高校では、それこそ「原爆を落とすべきか否か」のような、究極のテーマでディベートを行っています。日本ではできないでしょう。
加藤 博士課程を修了するには博士論文を通す必要がありますが、それを経験すると論理的思考力がかなり伸びますよね。一度書いて、先生たちからの批評(レビュー)で粗を指摘されて、それを踏まえて書き直して、ということを繰り返していくわけですから。
合田 博士論文の審査会を「ディフェンス」と呼ぶのは面白いですよね。最終的には、反論に対して、自分の主張を論破されないように守って、説得しないといけない。
江﨑 ディフェンスと聞くと閉じ籠っているような語感がありますが、つまりは論文の中で自分が主張したいこと、オリジナリティーを〝貫き通す〟ということですから、そのためには相当の論理的思考力が要求されます。