2024年4月30日(火)

Wedge REPORT

2023年6月21日

 土倉庄三郎にもっとも脂が乗って活躍したのは、1900年前後だろう。

 還暦を迎えた1900年の6月、庄三郎は川上村の村長に就任する。その2年前からは村会議員を務めていた。これまで衆議院議員(請われて第1回衆議院議員選挙へ立候補するが、途中で辞退)や奈良県会議員への立候補、また山林局の局長への就任を要請されたが、ことごとく断った。ところが地元の村会議員、そして村長は引き受けたのである。

庄三郎還暦記念。真ん中に庄三郎、前列に龍次郎と台湾人が並ぶ

山県有朋が贈った「樹喜王」の号

 村長時代は、村有林や道路の整備などを手がけたが、給与はすべて官吏に分配したという。また還暦祝いには、全国から祝電が届き来客も殺到した。山県有朋も川上村を訪問して、庄三郎に「樹喜王」の号を贈った。さらに台湾から先住民を招き長期滞在させている。

 当時の土倉家の暮らしぶりを伝える雑誌『吉野之實業』の記事によると、玄関先には執事がいて、日々絶えない来客者の用件などを聞き取ったうえで庄三郎につないだという。林業視察や寄付嘆願が多かったようだ。

 土倉家では、一度訪れた人に、まず食膳を勧めるしきたりになっていた。和洋中華いずれも調理できる厨房があり、豪華な料理が出された。そして当時珍しいイチゴやイチジクなどの果物が出ることもあったという。近隣の農家に栽培させていたらしい。さらに紅茶やコーヒーまであった。驚くのは、牛乳を飲むために山中に牧場を開いて牛を飼い、ミルクを搾っていたということだ。土倉家は普段から洋風生活を送っていたのである。

 1902年に大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれたが、土倉家は木材見本を出展し吉野林業を紹介したため、林業視察が激増した。庄三郎は断ることなく、毎回林業講和のみならず自ら山林を案内し解説した。

 一方でこの時期に家督を長男の鶴松に譲ったとみられる。村長職は1903年に辞した。庄三郎はより村外の事業に手を広げるようになった。全国各地を歩いて「木を植えよ」と講演して回り、また自身も各地で造林指導を行った。記録に残るだけでも群馬県の伊香保、滋賀県西浅井村、兵庫県但馬などがある。静岡県の天竜にも吉野式造林を伝えたが、これが現在の天竜林業の基礎となっている。また奈良公園の一画にも吉野林業地と見紛うような美林を作り上げた。


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