2024年5月16日(木)

Wedge REPORT

2023年6月21日

山林王でなくなってからも変わらぬ生き様

 晩年の庄三郎は、清廉な生き方を貫いた。山林王でなくなってからも請われるまま林業講和や造林指導、また国への仲介を続け、川上村のためにも駆け回った。ときに大隈重信首相などかつての明治の元勲らに面会を求めて陳情したという。

 1917年7月2日、軽い腹痛を訴えて寝込む。すぐに各地の医師が呼ばれるが、肝臓癌であるとわかった。19日家族に見守られて息を引き取った。77歳だった。葬儀では、知恩院執事長を始めとする45人の僧による読経が行われた。村民みなが列席し、国内だけでなく朝鮮、台湾からの来弔者、弔電、さらに書簡による弔意が伝えられた。

庄三郎の葬儀の列

 庄三郎亡き後の吉野林業はどうなったか。大正、昭和と木材は高騰したが、太平洋戦争時は軍部から全国で木材生産の増大が命じられた。だが吉野は、言を左右に拒み続けた。無茶な伐採を許さなかったのである。ほかの林業地は、この時の過伐がたたって後に苦労するのだが、吉野には質量ともに豊かな森を残していた。おかげで戦後も外材に負けることなく、吉野は林業の指導的立場を保ち続けられた。

 だが時代は移る。バブル崩壊後、経済的な落ち込みに加えて建築工法の変化などで吉野の高級材需要は縮小し、林業は衰退を続ける。国の林業政策も迷走し、数十年育てた木をバイオマス燃料にしてしまう有様だ。庄三郎が唱えた林業立国は夢のまた夢になった。

 だが、地球環境にスポットが当たり、野放図な資本主義が行き詰まりを見せる現代、改めて森と林業に向けた山林王のまなざしに今こそ振り返るべきではなかろうか。

   
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