2024年5月16日(木)

Wedge REPORT

2023年6月21日

西太后の信頼を勝ち取った娘

 息子娘もさまざまな世界に飛び出した。6男5女のうち2人を紹介しよう。

 次男龍次郎は1895年台湾に渡っている。日清戦争で日本か台湾を領有した直後である。そして台湾の山岳地帯を探検し、台湾北部に1万ヘクタールを租借して、林業を始める。無数に生えるクスから樟脳を採取する事業を行い、伐採跡地に吉野から取り寄せたスギを植えた。

 さらに台北の電力事情に目を向け、自らダムを建設して水力発電を行う計画を進めた。これは建設段階で台湾総督府に買い上げられたが、龍次郎は台湾林業の父、水力発電の父にもなったのである。

 なお、後に帰国した龍次郎は、カーネーション栽培に成功し、カーネーションの父と呼ばれるまでになる。さらに乳酸菌飲料カルピスの事業化にも関わった。

 もう1人注目したいのは次女の政子だ。彼女は同志社を卒業後の1990年からアメリカに7年間プリンナー大学に留学する。彼女を教えたアメリカ人に「驚くほどの先見の明と決断力、自制心の持ち主で、日本の誇り」とまで絶賛されている。さらにフランスのソルボンヌに行きたいと申し出るが,さすがに庄三郎は帰国を促した。

 帰国後、外務省官僚の内田康哉と結婚し、1901年に内田が清国公使となったため夫婦で北京に赴任する。そこで英語、ドイツ語、フランス語、北京語までこなす政子は社交界の花となり、西太后の信頼も勝ち取った。そして義和団事変後の混乱や日露戦争を巡って北京で展開された外交戦に関わるのである。

満州貴族の服を着た政子(前列左から2番目)と西太后(前列中央)

好事魔多し

 土倉家すべてが華やかな時代だった。だが、好事魔多し。家督を継いだ鶴松は林業よりも大陸を夢みていくつもの新事業を興した。肝心の事業内容ははっきりしないが、中国の炭鉱開発や朝鮮の農園開発などの話が伝わる。さらに内モンゴルの王族に多額の金品を贈り、満州蒙古の経営をめざしたとも言われる。

 最後の大事業は、水牛の皮革を牛革のようにする技術を開発した男に投資し工場を建設したことだ。1907年に300万円の手形を切ったという話が残る。これは現在なら数十億、いや100億円の大台に乗る額かもしれない。だが、それら資金を注ぎ込んだ事業はことごとく失敗するのである。

 問題は、資金調達に土倉家の山林を担保に入れていたことだ。1909年に破綻して山林が差し押さえられる事態となった。庄三郎がどこまで全貌を把握していたのかわからないが、親族会議の末に一族郎党の財産処分が行われた。


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