こうしたワグネルとアフリカ諸国との密接な関係はウクライナ侵攻を非難する国連総会決議の採決にも如実に表れている。侵攻当初のロシア非難の国連決議は圧倒的多数で可決されたが、棄権票を投じたアフリカ諸国のうち、半数ほどはワグネルの進出国だった。
各地で明らかになっている蛮行
ワグネルの戦闘員には、今回の反乱前から元囚人が多いとされる。プリゴジン氏自身も強盗や詐欺の罪で服役した過去がある。国連などの調査によると、ワグネルの作戦の中で、最も問題視されているのがマリでの住民虐殺への関与疑惑だ。
ニューヨーク・タイムズなどによると、昨年3月、政府軍がマリ中央部のモウラでイスラム過激派の掃討作戦を展開したが、約400人の住民が虐殺された。軍はヘリコプターからの無差別乱射や住民らの処刑、略奪などを5日間にわたって続けた。政府軍にはワグネルの戦闘部隊も参加していたことが目撃者の証言から明らかになっている。
マリは元々フランスの植民地だったこともあり、過激派掃討のために仏軍が派遣されていた。しかし、フランスとマリ政府との関係が悪化したため仏軍が撤退、この穴を埋めるようにしてワグネルが進出した。同国ではこれまでにモウラの住民虐殺も含め政府軍の作戦などで約500人が犠牲になっている。
中央アフリカでもワグネルの蛮行が明らかになった。国連の調査団によると、ワグネルは18年にトゥアデラ大統領の警備のため契約を結び、イスラム勢力との戦闘に加わった。ある時にはワグネルの戦闘員がモスクに侵入し、祈っていたイスラム教徒住民らをその場で射殺したという。
ワグネルはこの他、同国でラジオ局を開設したり、美人コンテストを開催したりし、自分たちの活躍を描いた映画も制作した。だが、失敗もある。モザンビークでは過激派組織「イスラム国」(IS)シンパ組織との戦闘で7人が殺害され、その後撤退を余儀なくされた。
反乱のきっかけはシリア情勢
そもそもワグネルの反乱はプリゴジン氏とショイグ国防相、ゲラシモフ参謀総長との確執が原因の一つとされているが、その始まりはシリアだった。ワシントン・ポストなどによると、18年2月、数百人規模のシリア政府軍とワグネルの部隊が北東部のガス・油田地帯にある「コノコ・ガスプラント」を包囲、このプラントをISに占領されないよう守っていた米軍小部隊と衝突した。
戦闘は4時間にも及んだが、米軍は戦闘機やB52爆撃機、ドローンなど空軍力を動員して政府軍とワグネル部隊を壊滅させた。100人以上が殺害されたが、米軍には死傷者はいなかった。
戦闘の最中、プリゴジン氏はロシア軍に空軍の応援を何度も要請したが、ショイグ国防相らに無視され、結果として多くの犠牲者が出た。この時の恨みがロシア軍との軋轢につながったという。