筆者はこのような学生の支援策を長く研究しているが、これらの政策の中には、進学が学生個人の責任ではなく、社会のためであるという明確なコンセンサスが見える。入試を実施しないがゆえに大学における高い中退率の問題が政策背景にあるのも事実だが、教育は国が行う公役務であることを前提に、できるだけ多くの若者が高等教育資格を取得することが重要な政策目標として位置付けて進められている。
高等教育資格を得た人が増えることがより安定した社会を構築する重要な方法の一つであり、高等教育の受益者は社会である、と考えられているのだ。これは、無償化を議論する上で、知っても良い一つの社会のあり方ではないだろうか。
さらに、学生の支援を政策決定していく中で、社会格差を解消することがよりよい社会のために必要だ、という共通認識があることも、重要なことだろう。政党の人気取りではなく、より良い社会はどのように作られるべきか、統計調査および教育社会学研究の知見をもとに考える教育政策がそこにはある。
例えば、進学意欲は個人的な責任ではなく、社会的にもつくられるものであること、進路選択の幅が個人間で異なることと社会的格差の関係性は教育社会学研究で明らかにされているが、これは日本でどの程度一般的に認識されているだろうか? 自己責任論が流布する中では今さらながら強調したい点である。
日本は何のために無償化するのか
フランスの大学も恒常的な予算不足に悩まされており、さまざまな形で政府から「改革」と称した競争原理を徐々に強いられている現実は日本の大学と変わらない。大衆化した教育機関である大学は、取るべき学生支援に対し、常に予算不足という困難を抱えているし、政府はこれを解消しようと次々と競争原理を導入している。
このような政策の方向性と大学は対立的であり、それゆえここでは紹介しきれない矛盾もあるのだが、いずれにせよ、高等教育への若者の進学は国にとって是であるという前提は両者に、そして広く社会全体に共通認識として根付いている。
進路選択と社会格差の議論は日本においては一般に、学力差の議論に覆われがちである。進路選択、そしてそこにある格差は個人の責任のみによるものではない。高等教育進学が社会にもたらす利益はどのようなものなのか、そして、誰に支援することがよりよい社会を作ることになるのか、いま一度立ち止まって考え、無償化の対象議論が行われることを望みたい。