対馬調査の2年目、研究者らが出かけたところ、「うちの村の悪いこと、恥になることを九学会は書いた。もう村にいれない」と青年団が竹槍を持って、調査を妨げた。
そこで宮本らが現地に出向き、「うそをついたのなら取り消す、あやまる。しかし、これは本当じゃないですか。本当のことを書かれて恥ずかしいなら、その制度を変えなさい」と諭して決着したという。
宮本常一と渋沢敬三は、初年度調査後、上京した対馬の陳情団を助け、水産庁関係者に漁港改築の予算獲得をはたらきかけていたのだった。それがきっかけとなり、宮本は島の人びとからいろいろな相談をうけるようになった。
宮本と渋沢らの活動の底流には、調査地と継続してつきあい、与え・与えられる関係になりたい、という意識があったようである。彼らによって、共同調査は学問上の成果のみならず、その後の離島振興法や離島振興事業に結びついていった。
「調査日記やフィールドノートに記されこそすれ、論文や著作などの公刊物に書かれることは少ない」こうしたエピソードは、著者のフィールドワークのたまものであり、貴重な資料である。
戦後日本における「辺境」の
複雑な事情を浮き彫りにした
あらためて三つの共同調査の時期に注目すると、対馬調査は、日本がGHQの統治下に置かれていた時期であり、初年度の開始直前には眼前の朝鮮半島で戦争が勃発するという特異な状況下だった。続く能登調査は、日本の再独立(1952年)直後。そして奄美調査は、沖縄とともにアメリカ軍政下に置かれていた奄美群島が日本に復帰(1953年)したことをふまえて実施された。
つまり、三つの調査には「敗戦やその後の占領の経験が影を落として」いた、と著者はみる。
<朝鮮戦争勃発直後に実施された対馬調査において調査団は、日本と韓国の領土問題に揺れる対馬の人びとに出会うことになったし、奄美調査においては、「本土」復帰直後の奄美の人びとの「日本人」だと証明してもらいたいという強い期待に遭遇することにもなった。対馬や奄美の場合に比べると、能登調査には敗戦や占領の痕跡は希薄だが、いっぽう、そこでは調査によって引きおこされた「調査地被害」をあとあとまで引きずることになった。>