<本日の患者>
H.M.さん、70歳、女性、元テレビ局アナウンサー。
「先生、私からお薬を取り上げないで下さいね!」
「H.M.さんのためなんですけどね……」
「お薬がなくて眠れない時の辛さは、先生にはわからないでしょう」
「それは大変だと思います。でも、かなりの部分は薬への過度な心理的依存なんですよ。その負担を軽くして、副作用で困らないようにもしたいし……」
こんな会話を続けながら、私はH.M.さんの不眠症ケアの方向性を転換するとっかかりを探していた。
H.M.さんは、その名前を聞けば年輩の日本人なら大抵は知っている、かつて某テレビ局でアナウンサーをしていた女性である。現役引退後もさまざまなところから司会や講演、コメンテーターを依頼されて忙しかったが、「さすがにもう潮時」と考えて身辺整理し、半年前に、比較的静かな郊外のこの町へ転居してきた。敬愛していたH.M.さんの祖母ゆかりの地とのことだ。
私が働くこの診療所を初めて受診した時に、「持病があるので、インターネットで転居先の医者探しをしたんですよ。逆マーケティング・リサーチね。そしたら、この町に先生がいるじゃないですか。もう、びっくりするやらホッとするやら大変でした(笑)」とH.M.さんから言われて、顔と名前を見合わせ、こちらも大いにびっくりしたのだった。
あれはもう20年以上前、私が北海道で家庭医の専門研修プログラムを立ち上げてしばらく経った時に、当時札幌支局にいたH.M.さんから取材を受けたことがあったのだ。
当時の日本のメディアとしては、かなりしっかり家庭医について事前にリサーチをしていて、多くの適切な質問をしてくれたので、取材が盛り上がったことと、「これから日本で家庭医は絶対に必要になります。頑張って下さい!」と励ましてもらったことを鮮明に覚えている。
不眠症とは
H.M.さんの「持病」は不眠症だった。仕事が多忙かつかなり不規則だったため、なかなか一つの医療機関を継続して通院することがままならず、今までに内科、心療内科、精神科など多くの医療機関をスポットで受診して、その都度必要な薬を処方してもらっていたそうだ。
現在服用している薬は、5年ぐらい前から変わっていないとのことだったが、不眠症に対する治療薬は4種類にもなっていた。薬のカテゴリーで言うと、三環系抗うつ薬、ベンゾジアゼピン系抗不安薬、セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI)、そしてチエノジアゼピン系催眠鎮静薬である。