「奨学」という原理に立ち返る
そもそも、現行の大学無償化政策は、「貧困の連鎖」を解消することを主たる目的としていた。経済的な理由で能力開発の機会を奪われることがない環境を整えることで、活力のある社会をつくることを目指したのである。政策に混乱がみられる際には、原点に立ち返ることが有効である。
「奨学」には、貧困世帯の増加による社会保障支出を減らす機能がある。また、誰でも「働きがいのある仕事」に就くことができる社会は、国民の幸福度をあげることにつながる。少なくとも筆者は、一部のエリートが富や幸福を独占し、大多数の国民が生きづらさを感じる国に住みたくはない。
言葉を選ばずにわかりやすい表現を使えば、「育英」は日本の将来を担う優秀な人材を、「奨学」は人並みの仕事ができる人材を育てるためにある。
社会は新しい価値をつくりだす優秀な人材だけではまわすことはできない。日々の生活に欠かすことができない医療、福祉、交通などの公共サービス、生活インフラや小売りの分野でも、職業の専門性が求められている。一見するとただちに職業には結びつかないようにみえる文学や歴史、哲学などの人文科学分野も、豊かな発想を育み、社会の矛盾にいち早く気づくリベラルアーツ(教養)として欠かせない役割を果たしてきた。
「育成か、奨学か」「理系か、文系か」といった優劣ではなく、どちらも車の両輪として不可欠なものとして尊重していくことができないものか。今日も頭を悩ませている。
なお、大学無償化政策については、過去の記事に、政策効果を検証した「ひとり親世帯の進学率が1.5倍に 奨学金が拓く未来」、政策課題を明らかにした「コスパ優先で複雑化する奨学金 割を食う中間層」、筆者の政策提案となる「擬似ベーシックインカムで大学生の奨学金問題解決を」がある。この問題をより深く理解するために、ご一読いただければ幸いである。