冷戦時代、米ソ間では激しいスパイ合戦が行われた。米英はファイブ・アイズ同盟を結び、通信傍受によってソ連の秘密を入手していた。米国家安全保障局(NSA)が中心となり行った「ヴェノナ」計画が有名で、これにより米国内で活動していた100人以上のソ連スパイや協力者をあぶり出した。
しかし、当時米国に浸透していたスパイや協力者は200人以上と見られており、その一部は米国中央情報局(CIA)の中枢までも浸食していたので、スパイ合戦ではソ連の方が一枚上手であったといえる。
1962年10月、ソ連がキューバに核ミサイルを配備したことで、「キューバ危機」が生じた。この時、米国は通信傍受や偵察機による写真撮影によって、キューバに配備されるソ連のミサイル情報を収集していたが、決定的だったのは、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のオレグ・ペンコフスキー大佐からの情報提供だった。
ペンコフスキーは、ソ連軍がキューバに建設したミサイル基地の詳細な情報をCIAに提供し、当時のロバート・ケネディ司法長官から「CIA設立以来の経費すべてを正当化するものだ」と絶賛されている。しかし危機の最中、ペンコフスキーは情報漏洩を理由にソ連国家保安委員会(KGB)に逮捕され、翌年、銃殺刑に処された。
CIAをかき乱す
KGBの「モグラ」
通説によると、ペンコフスキーの行為が発覚したのは、危機の最中に「偶然」KGBがペンコフスキーの漏洩に気付き、彼を監視し始めたとされるが、元CIA分析官、ピート・バグレーの最近の調査によると、CIAの中にソ連への内通者(モグラ)がおり、そこからKGBにペンコフスキーの存在が漏れたというものである。61年4月にペンコフスキーがCIAの情報提供者となった直後から、既にKGBはモグラからその事実を掴んでいたが、KGBはすぐには動かなかった。
恐らくKGBはペンコフスキーを逮捕することで、モグラの存在がCIAに知られることを危惧したのだろう。狡猾なKGBはCIAをかく乱させるために、KGB工作員のユーリー・ノセンコを米国に亡命させることにした。ノセンコの任務は亡命者を装ってCIAに偽情報を掴ませ、CIAがモグラの正体に行き着かないようにすることであった。そしてKGBの狙い通り、ペンコフスキーは「偶然」KGBの監視網に引っかかって逮捕されることになる。
このようにKGBは亡命者を装った工作員をCIAに送り込み、偽情報を刷り込むことで、CIAの調査能力を削いでいった。名の知られている元KGBの亡命者は、アナトリー・ゴリツィンやイゴール・コチノフらがいるが、彼らの正体は曖昧なままだ。
逆にこれら亡命者の証言から、CIA内にモグラが潜んでいると確信していたのが、防諜部のジェームズ・アングルトンである。彼はCIA内のモグラ狩りを熱心に進めたが、身内を疑うやり方は徐々に部内の反感を強め、しまいにはCIA長官のウィリアム・コルビーまでもソ連のスパイだと疑い出したことで、彼のスタッフとともにCIAを放逐された。英語の造語「アングルトニアン」はアングルトンの行為を皮肉めいて形容した言葉で、「陰謀めいた、正気を失った」という意味で現在も使われている。