2024年4月15日(月)

勝負の分かれ目

2024年3月23日

 谷さんは治療の副作用によって、ウィッグ姿で行った就職活動を実らせて就職したサントリーに入社した1年目の04年、アテネ大会への初出場をかなえた。当時のパラリンピックはそこまで認知度が高くなく、有休を消化して遠征などに出向いていた。

パラ競技の認知度向上にも尽力

 08年北京大会に出場し、次の12年ロンドン大会を目指していたときには、東日本大震災が発生し、故郷の宮城・気仙沼を甚大な被害に見舞われた。「パラリンピックどころではない」と困惑する中、多くのトップアスリートたちが被災地を訪ね、元気と勇気を届ける姿に「スポーツの力」を改めて実感した。

谷さんはパラスポーツへの思い入れも強い(谷真海さん提供)

 ロンドン大会を経て、東京大会の招致活動にも携わる。13年9月、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された国際オリンピック委員会(IOC)総会で最終プレゼンターを務めて、招致実現をたぐり寄せた。

 その後に結婚し、長男も生まれた。このころ、水面下で国政への打診も受けたが、アスリートとしての活動にこだわった。東京大会では、自身の障がいクラスでの実施が見送られることにったが、あきらめなかった。国際パラリンピック委員会(IPC)会長に英語で手紙を書き、「全てのパラアスリートに門戸が開かれるべきだ」と訴え、障がいの程度が軽いクラスとの統合という形になったが出場をかなえた。

 旗手を務めた谷さんは東京大会の閉会直後、Twitter(現X)に、東京大会の選手村内の横断歩道を7人のスリートが渡る写真を投稿。青空の下、義足や車椅子、手を失った選手たちとともに撮影した写真に、こんな一文を添えた。

 「みんなちがって、みんないい」

 たくさんの「いいね!」とともに大きな反響を呼んだ。

 コロナ過での開催に賛否があったものの、谷さんは「パラリンピックへの理解が進み、パラアスリートをサポートする企業も増えた。レガシーという点で、開催の意義はあったと思います」と振り返る。

なぜ、今からパリを目指すのか

 確かな軌跡を残し、東京大会後はNHKのスポーツ情報番組「サンデースポーツ」に出演するなど幅広く活躍し、22年夏に第2子が生まれた。出産直後は「睡眠時間も削られ、競技者のコンディションではなかった」と打ち明ける。しかし、出産の2カ月後はトレーニングを徐々に再開していたという。


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