2024年7月8日(月)

一人暮らし、フリーランス 認知症「2025問題」に向き合う

2024年7月5日

 連載第15回から、難聴と認知症の関係について見ている。

 前回は、補聴器に対する自治体の公的支援(助成)の現状をご紹介した。

⇒前回記事はこちら『補聴器は高過ぎる!? 動き始めた〝公的助成〟の現在地 全国から注目される「港区モデル」とは?~改善可能な危険因子・難聴⑤』。

 補聴器に対する助成では、自治体ごとに金額や条件に大きな違いがあるだけでなく、そもそも助成を行っていない自治体も多くあることがわかった。

 とはいえ、公的資源には限りがある。

 その中で、どこにどれだけのお金をかけるか、自分でできることはなんなのか。私たちは知って、考えて、決めていかねばならないだろう。

 そこで、今回は改めて、私たちにとって「聞こえ」とはどういうものなのか、そして自分でできる行動にはどんなものがあるのかについて考える。

(west/gettyimages)

「聞こえ」が脳に与える影響

 今回も、慶應大学名誉教授で「オトクリニック東京」院長の小川郁先生にお伺いしながら、まずは聞こえと認知機能の関係から見ていこう。

聞こえは、認知機能に大きな影響を与えていると言えます。 耳に入った情報が脳に届くまでには7本の神経を乗り継いでいます。聞こえというのはそれだけ複雑で、乗り継いでいく途中には、大脳辺縁系というところと様々な交通をしています」(小川先生、以下同)

 連載第15回で書いた情報を再掲すると、「聴覚刺激が減ることで脳内に何かしらの変化が起こることが考えられる」という。実際、加齢性難聴の患者さんに脳の萎縮が見られることがあるのだとか。また、米国で行われたコホート研究(→注)の結果から、「難聴によって認知機能が低下し、軽度から中等度の難聴を放置すると、7歳歳上の人の認知機能と同じになることがわかりました」とのことだった。

 聞こえは認知機能をキープする上で、それほど重要なものだったのだ。

 今回の取材で私はほぼ生まれて初めて耳や聞こえについて考えたのだが、耳という器官が24時間営業であることに改めて気づかされた。しかも連載第15回で教わった通り、「聞こえはコミュニケーションの大事なツールというだけでなく、感情や思考の入り口」でもある。ということは、私たちは自覚していないけれども、耳は24時間体制でいろんな情報を感知し(もしくは、感知しようとして)、伝えて(くれようとして)いるということだ。

「聞こえ」は思考にも影響する

 よって、難聴になった場合には、積極的に取ろうとするコミュニケーションの現場で困るだけでなく、ふいにもたらされるはずの「情報の波」も遮断されることになる。すると、その結果、思考や感情さえも薄らいでいく可能性だってあるかもしれない。

 私自身の例で考えると、私の仕事は書くことが中心なので、普段から一人でいることは多いし、考えごとをする時に耳を使っているつもりは(自分には)ない。

 しかしよくよく思い返してみれば、雨や風などの「自然の音」や「町のざわめき」や「車のクラクション」、「誰かのつぶやき」や「他愛ないおしゃべりの声」や、「町に流れる音楽」や「ラジオの音」などが私の脳に届いていて、「嬉しい」「楽しい」「心地いい」「不快だ」などの感情を呼び起こし、私の思考に変化や彩りを与えてくれているような気はする。それらから生まれた感情や思いが、なんらかのひらめきを生んだこともあるだろう。

 自覚していない音だって、きっと耳や脳は感知していて、私の思いや考えに少なからぬ影響を与えているはずなのだ。…そう考えると、「聞こえ」とは、わたしという人間の「ありよう」にさえも影響を与えているのかもしれないし、もっというと、「聞こえ」とは私たちと社会をつなぐ「へその緒」のような存在のものではないかとさえ思えてくる。

「聞こえ」が孤独を妨げる

 もう少し、続けよう。

 私は、以前とても静かな住宅街に住んでいたことがあるのだが、平素からととても静かだったその辺は大型連休ともなると、周囲の家がこぞって雨戸を閉めて出かけるせいか、単に静かと言う以上に「シーン」という音が聞こえてきそうなほどの静寂に包まれた。

 そしてそうなると、普段と同じように部屋にいても、なんだか落ち着かなくなってきて、私はそわそわと部屋を飛び出しては、駅前に移動したものだった。すると駅に近づいていくにつれて、ざわめきや喧騒が戻ってきて、私は「ああ、一人ではないんだ」と思えてホッとしたことをよく覚えている。

 聞こえというのは、もしかしたら、聞こえている時には気づきづらいかもしれないが、「音を伝えること」で私たちに、一人でいても「一人でない」と感じさせてくれているものなのかもしれないし、もっと言うと、音のない世界は私たちが想像する以上に、「一人であるということ」を突きつけてくるのかもしれない。イメージとしては、自分一人だけが世界から「切り離されたか」のような、つながりのない、「不安定な状態」に さらされ続けているというか。

 そのため、音のない世界に身を置いているということは「常に孤独にさらされている状態」であるというだけでなく、つながりのない「不安定さ」が「つきつけられ続けている」ような状態であるのかもしれない。自覚できるかはともかくとして。


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