2024年8月4日(日)

絵画のヒストリア

2024年8月4日

 のちに『猫』を評して、洲之内が「この人はどうしても実物を据えておかないと絵がかけないのである。それはこの人の律義さ潔癖さであろうか」と書いたのに対して、画家は次のように反論している。

〈私は彼の言う通り目の前に或るものを描く。しかし、それは実物によって生まれる内部の感動を描くのが目的ですから、実物を描いている、とはいえません。つまり私が描いているのは実物ではありません。しかし、それは実物なしでは生まれない世界です。この間の事情は外部の人には一寸判りにくいところがあると思います。一番重要なことは、描く前の心のあり方です〉

 「目前にあるものが美に輝くとき、それは神秘の世界から現れた贈物のように見える」という画家の言葉は、写実絵画が持つモダニズムの逆説をとらえて、作品の後景に広がる画家の深い詩情の根源へわれわれを導いてゆく。

潾二郎の故郷と個性豊かな兄弟たち

 現実と夢の間を行き来する潾二郎の世界は〈風景〉を描いても同じである。

 1935年の『時計のある門』という作品は、東京・麻布にあった天文台の正門から塀越しに大きな時計を屋根につけた人気のない庁舎を描いている。

 画面の上半分は曇天の空が覆い、通りで幼子が一人ボール遊びをするだけで他に人の気配はない。白日夢のような非現実感はいっそ、デ・キリコやダリのシュルレアリズムの世界を思わせる。

 27歳でフランスに1年間遊学するにあたり、旅券をとるために訪れたソ連大使館の裏手の天文台の風景が、画家の記憶にしっかりと刻まれていた。帰国して3年余りたったある日、その風景が突然蘇って現場を再訪すると、記憶のままの眺めが目のまえにあらわれた。少しも変わることなく。

 かくしてこの絵は描かれた。

〈塀は私が描きにくるのを待っていたようだった。そして私はこの塀を描くために巴里から帰って来た。そんな気がした。‥‥〉

 「現実は精巧に出来た夢である」という潾二郎にとって、〈写実〉とはそんな空間と時間の入り組んだ構造の中にあらわれる、詩情の再現なのである。

函館市立美術館で開かれた長谷川燐麟郎展のポスター。右下がアトリエの長谷川潾二郎

 長谷川潾二郎は1904(明治37)年、北海道函館に生まれた。

 生家はもともと佐渡で幕府の金座役人を代々務めてきた家で、父親の清は佐渡中学の英語教師からジャーナリストとなって函館へ渡り、「北海新聞」の主筆として反骨の筆を振るった。教師時代の教え子に北一輝がおり、自由民権運動への共感に重ねて国粋主義者の大川周明や内田良平らとも交友を持つ、破格の人物であつた。結婚した漢学者の娘との間に四男一女をもうけたが、家庭はリベラルな放任主義で、そこに育った次男が潾二郎である。

 湿り気をもった日本の風土から抜け出したような、この画家の写実画の奇想と静寂の謎に分け入るには、画家を含めて昭和期のさまざまな表現領域に多彩な足跡を刻んだ〈長谷川四兄弟〉の事績と、産土(うぶすな)としての北方の国際都市、函館の風土について少しく語らねばならない。

 長男、海太郎は4兄弟の中ではこの国で最も広く知られた仕事を残した人物として、今日その名が伝えられている。

 大正から昭和前期にかけて谷譲次、林不亡、牧逸馬という三つのペンネームを使い分けて、雑誌『新青年』などに冒険小説、時代小説、風俗小説などを書き続けた作家である。

 なかでも渡米経験をもとに〈谷譲次〉の筆名で書いた〈めりけん・じゃっぷ〉のシリーズは、排日運動が広がる米国を舞台に日本人の主人公が活躍するエンターテインメントである。日本では稀有の「移民文学」として書かれた活劇はベストセラーとなって多くの読者に迎えられた。〈林不亡〉の名前で発表された『丹下左膳』が、虚無の影を湛えた新たな時代劇のヒーローとして人気を集め、何度も映画化されてきたことも広く知られている。


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