スタジオジブリは、いわずと知れた日本が誇るアニメーション映画の製作会社である。そこから生み出される作品は日本人のみならず、海外の人の心もつかんで離さない。同社は1985年に設立され、平成という時代に数々の名作を世に送りだしてきた。
ジブリ作品を監督するのは世界に誇る天才・宮﨑駿と、その先輩であり師匠でもある高畑勲。宮﨑と高畑が交互に作品を手掛ける中、ほぼすべての作品に携わってきたのが、プロデューサーの鈴木敏夫だ。
ジブリ作品のヒットの裏には、天才たちを見事に御し、〝猛獣使い〟とも称される彼の存在が欠かせない。ジブリが駆け抜けた平成という時代を鈴木はこう振り返る。
「過去に『平成がどんな時代だったか』を質問されたことがあってね。年表というと大げさだけど、平成の作品を振り返ってみた。すると、最初の作品が『魔女の宅急便』で、それ以降ほとんどの主人公が〝女の子〟だったんですよ。〝男の子〟じゃない。
意識して女の子ばかりを主人公にしていたわけではなく、結果そうなっていた。なんでだろう、と思ったら、平成とそれまででは、女の子が大きく様変わりしたことに思い当たった。男は情けないことに何も変わらないんだけど、女性が元気になったのが平成なんでしょうね」
女性が社会に出て自己表現ができるようになった平成という時代。そんな平成のジブリ作品では、年齢や性格もさまざまなヒロインが描かれる。奔走する彼女たちに観客は時に自己投影をし、時には親のように見守る。そんな魅力的なヒロインには作り手の理想が反映されているという。
「宮﨑と高畑は男。僕も男でしょ。女の子のことはわからない。深く掘ることができないからこそ理想的な女の子を描くことができたんでしょうね」
平成最大のヒット作となった『千と千尋の神隠し』。ただ、その主人公「千尋」は、宮﨑が当初描こうとしていた女性像とは異なるものとなった。
宮﨑作品の『もののけ姫』が97年に大ヒットを記録した翌年、鈴木は次の高畑作品『ホーホケキョ となりの山田くん』にかかりきりで、宮﨑の次回作に関わる余裕がなかった。
そんな中、宮﨑が一人でコツコツとイメージボードを作成していた作品は「18歳の女の子と60歳のおじいちゃんの恋愛物語」だったという。
鈴木は当時を振り返り「さすがに付き合っていられないと、腹の中では、はっきり思いましたね」と笑う。
「ただ、そんなことはもちろん宮さんには言えない。僕は、当時流行っていた『踊る大捜査線 THE MOVIE』を観て、現代の若者の感覚というものを目の当たりにしていた。宮さんに一言『僕らに若者を主人公に映画を作れるんでしょうかねえ』とだけ伝えた。宮さんは察しがいいから、『要するに企画としてダメなのね』と言って、100枚以上あったイメージボードを、その場でごみ箱にバーンと捨てました……あれは忘れないですね」
その後、宮﨑は鈴木に突然、共通の知人の娘さんをモデルにした映画を作らないかと提案してきたという。
「その女の子を二人ともかわいがっていたんです。おまけに、舞台はジブリのすぐそばにあって、僕が大好きな『江戸東京たてもの園』にする、と。僕が反対できないような仕組みを作るんですよ。宮さんは反対されるのが大嫌いだから。そういう宮﨑の『怒り』が『千尋』を生んだんです」
まさに〝猛獣使い〟だ。