2024年11月23日(土)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年10月6日

(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空〉)

セブ島の高校生が作成していた国民的英雄の物語

セブ・シティーのサン・ペドロ要塞公園で出会った高校生グループ

 4月24日。セブ・シティのサン・ペドロ要塞公園を歩いていたら短編映画を作成していた高校生グループに会った。フィリピン独立の英雄“ホセ・リサール”が現代にタイムスリップして現代フィリピン社会を観察するというようなストーリーらしい。彼らの話しぶりからホセ・リサールがいかに国民から崇拝・敬愛されているか伝わって来た。

 日本では一般に知られていないが、ホセ・リサールはフィリピン人なら誰でも知っている断トツ・ナンバーワンの国民的英雄である。マニラ中心部には壮大なホセ・リサール記念公園がある。どこの町にも必ず“ホセ・リサール通り”“ホセ・リサール公園”があり至る所にホセ・リサールの銅像が立っている。幼稚園から大学まで学校には必ず彼の銅像がある。調べると1956年に「ホセ・リサール法」が制定され全ての学校でホセ・リサールの生涯、著述を教えることが義務づけられている。

国民的英雄の35年の短い生涯

サン・ペドロ要塞公園に立つ初代総督レガスピの銅像。1565年にフィ リピンを征服。彼は一旗揚げようとヌエバ・エスパーニャ(現代のメキシコ)に渡った バスク地方出身者。征服者(conquitadores)にはバスク人が多い。1521年にマゼラ ンがセブ島に到達するが現地人に殺害されその後ポルトガルがインドからモルッカ諸島 まで制圧していたのでスペインは東洋への進出が遅れた

 筆者は2年前に見学したマニラのホセ・リサール記念館(Rizal Shrine)を見学した。記念館は英雄の生涯を数多くの展示物で丁寧に紹介していた。

ホセは1861年6月19日にルソン島カランバで生まれ、1896年12月30日にスペインからの独立を扇動した罪でマニラのサンチアゴ要塞で処刑された。その処刑場跡地にホセ・リサール記念館が建てられている。

 ホセの家系は父方に中国人、母方に日本人もいるスペインとフィリピーノの混血(mestizo)。白皙眉目秀麗学究肌の肖像が残っている。マニラのアテネオ学院で農業・測量を学びサント・トマス大学で医学を修了、21歳でマドリード大学医学部と哲文学部へ。この間に18歳でスペイン語の詩のコンテストで優勝。24歳で哲文学博士・医学学士。その後パリ大学で仏語と眼科を修め26歳からハイデルベグル大学、ライプティヒ大学、ベルリン大学で医学と社会学を学ぶ。

 ホセは同時に語学の天才で英・仏・独・西・蘭・葡・露・中国など主要言語かラテン・ヘブライ・サンスクリットなど22カ国語を習得。

 ホセは独立運動の精神的リーダーであるが同時に医師、著述家、詩人、学者、画家という博学多才ぶり。辛亥革命の孫文、魯迅、日本では平賀源内、南方熊楠を併せたような稀有な才人である。

フィリピン高校生必読の国民的叙事詩を出版

 1887年2月、26歳の時に『ノリ・メ・タンヘレ』という小説をドイツで出版してフィリピン社会を描きスペイン支配やカトリック教会を批判。タガログ語版もフィリピンで出版されフィリピン人の国民意識を覚醒し後の独立闘争につながる。

 その後30歳で『ノリ・メ・タンヘレ』の続編『エル・フィルブステリシモ』(題名は19世紀初めのラテンアメリカのスペイン植民地解放運動を意味する)をベルギーで出版。この2つの小説はフィリピンで高校の必読書に指定されている。

 1887年6月フィリピンに帰国するも小説発禁と国外追放命令により翌年2月に米国経由で欧州に再留学すべく出国。

ルソン島北西部の地方都市ビガン中心部のホセ・リサールの銅像

寄港地横浜で日本女性に運命の邂逅

 2月28日に船の乗継のため横浜港に到着。翌日元旗本の貿易商の娘“臼井勢以子”(おせいさん)に偶然出会い恋に落ち、2日間の日本滞在予定が一か月半にも及んだ。ホセ27歳、おせいさん22歳。おせいさんは英語とフランス語を少し話せる教養ある女性だった。

 ホセ・リサール記念館には“おせいさん”の大きな肖像写真とホセが描いた似顔絵が展示されている。そして彼女から習った日本語をホセが筆記したノートには端正な漢字とひらがなで書かれた単語や例文が並んでいる。

 ホセは日比谷にあった東京ホテルに逗留しておせいさんと東京見物し早春の日光や箱根も楽しんでいる。現在日比谷公園の東京ホテル跡地にはホセの銅像が立っている。

 ホセはスペイン人からも敬愛され、身の上を案じたスペイン公使館から日本に残り在留外国人のために診療所を開業するように勧められたが「フィリピンや世界各地にフィリピン独立のため自分を待っている同志がいる」と申し出を断って4月13日に米国へ向け出航した。ホセは日記におせいさんへの思いを切々と綴っている。

 その後ホセは3年間欧州での亡命生活を経てフィリピンに帰国して独立運動に挺身、ミンダナオ島への流刑を経て35歳で処刑された。ホセは『日本でおせいさんと過ごした1カ月半は青春の至福の一章であった』と手記に残している。

おせいさんの後半生と墓地

 22歳でホセを見送ってからおせいさんは長らく独り身で過ごした。1897年に30歳で大学教師の英国人と結婚。当時としてはかなりの晩婚である。前年度にホセがマニラで処刑されたことは日本でも新聞報道されており、ホセの死を知ったおせいさんは結婚を決意したのであろうか。

 おせいさんは1947年80歳で亡くなり、英国人の夫とともに雑司が谷の墓地に埋葬されている。墓地には毎年ホセの誕生日にフィリピン大使館が献花している。


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