2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年7月23日

 海外でも80年当時、独占企業への風当たりが増していた。英国ではサッチャー政権が82年にブリティッシュテレコム(現・BT)の民営化を決定。米国では社員100万人以上を抱えていた民間企業のAT&T(米国電話電信会社)を司法省が反トラスト法(米独占禁止法)違反の疑いで訴え、82年に裁判で和解が成立、AT&Tの分割が決まった。

 そうした海外の流れを受け、日本でも第二臨調が国鉄、電電公社、専売公社の民営化を提言、電電公社は85年に民営化され、NTTが誕生した。通信市場を自由化すれば、競争原理が働いてNTTの経営が効率化し、新しい通信会社が生まれ、通信料金の低廉化にもつながると第二臨調は期待した。事実、KDDIの前身となる第二電電(DDI)やソフトバンクグループの通信事業はこうした規制緩和から生まれた。

1985年4月、民営化を受け本社で開かれた「ダイナミックループ」の除幕式(NTT)

 政府の決定を受け、NTTは民営化翌年の86年に不動産事業をNTT都市開発として分社化、88年にはシステム開発事業などを「NTTデータ通信」として分社化した。公共の通信インフラを担うNTTは他のシステム会社にも同等に通信を提供する義務があり、公正競争上も分割が望ましいと考えられた。

 携帯電話事業も新しい移動通信市場を育てるには固定通信と分けた方が得策とされ、92年にNTT移動通信網(現・NTTドコモ)を分社化した。99年には固定通信網もNTT東日本と西日本、それに長距離通信と国際通信を担うNTTコミュニケーションズに分割した。

 ここで興味深いのは、国鉄は87年に地域会社6社と貨物会社に一気に分割・民営化されたのに対し、NTTの分割には85年の民営化から14年もの時間を要した点だ。国鉄は借金が雪だるま式に増え、民営化直前には累積債務が37兆円に膨らみ、分割・民営化は待ったなしだった。

 一方、NTTは同じ体質でも通信という成長産業ゆえに黒字経営を維持しており、分割に対してNTTはもちろん、政治家の一部にも反対があった。NTTは全国一律に通信を提供するユニバーサルサービスの責任を負っており、地域と関係の深い鉄道と異なり、地域分割はなじまないと指摘されていたからだ。

 そんな中、日本では資本の集中を招く持株会社が財閥解体以降、独占禁止法で禁じられていたが、97年の法改正でそれが認められるようになった。経済のグローバル化を受け、事業再編に適した持株会社制度が改めて注目されたからである。

 すると政府はこの機をとらえ、長年の分割論議に終止符を打とうと、固定通信を分割する代わりに持株会社を置くことで経営の一体化を保つ折衷案を提示し、97年にようやく議論が決着した。分割を求める郵政省(現・総務省)や一体経営を求めるNTTなど、それぞれがメンツを保てる妥協の産物だった。

インターネットの台頭で
通信市場のグローバル化が加速

 しかし日本が通信市場を巡る国内の政争に明け暮れている間に海外では新たな技術革新が始まっていた。90年代後半から米国を中心に世界に広まったインターネットである。デジタルのデータ通信が台頭すると市内通信と長距離通信を分ける必要がなくなり、国境をまたぐ新しい情報通信サービスが登場した。

 米国では96年に電気通信法が改正され、地域通信会社の相互乗り入れや通信事業と放送事業の相乗りが認められた。その結果、通信会社同士の再編や通信会社と放送会社の合併が起き、7つの地域会社と長距離通信会社に分割されたAT&Tも、ベライゾンと新生AT&Tの2社に再び統合されてしまった。

 日本は周回遅れの議論に14年もの時間をかけ、政府もNTTも内輪の分割論議に目を奪われたことから、インターネットの潜在力に早く気付かなかったことが今日のデジタル敗戦を招いたともいえる。通信市場を自由化し国際競争力を強めるための分割・民営化が、かえって日本の情報通信産業の競争力を損なう結果となってしまった。

1999年にiモードのサービスが開始。折りたたみ式の端末は人気を博した(THE MAINICHI NEWSPAPERS/AFLO)

新着記事

»もっと見る