落ちこぼれ
週刊朝日が「肩が強い」と紹介した矢野とはどんな選手だったのか。
松山市立久米中学時代、軟式野球をしていた矢野が名門松山商に入学し、厳しい練習で知られた野球部に入って硬式ボールを握った。矢野は「硬式をやっていた同期の選手との差を感じました。『レベルがちがうなあ』と。『ここでやっていけるんか…』と思いました」(同書20頁)
「鬼の澤田」と選手たちから恐れられていた澤田勝彦監督は、怠慢プレーに対してはとりわけ厳しかった。技量が劣っていると自覚する矢野は、舐めたプレーをする余裕もなく、ひたすら真面目に練習に打ち込んだ。だが、「失敗したらどうしよう」という思いがプレーを委縮させミスがミスを生む悪循環に陥る。
練習の最後はシートノックをやり、ノーエラーで終了するのが決まりだった。内野から始まり、最後のポジションがライト。矢野がエラーをすると、もう一度内野からやり直し。何度も矢野がエラーをしてやり直しになることがあった。矢野はチームメートから「お願いだから、野球部を辞めてくれ」と土下座して頼まれたこともあったという。
控えの「9」
2年生となった95年秋の四国大会で松山商は決勝で高知の明徳義塾に競り負けたものの準優勝。翌96年のセンバツ大会出場を決めた。前年夏に続いて2季連続の甲子園出場である。
最上級生になる矢野は真面目に練習に取り組む姿勢と、鍛えた肩の強さが買われ、背番号「9」をもらった。だが、公式戦では「準レギュラー」というべき存在だった。
同学年のエースで打線の中軸を打つ渡部真一郎に加え、1学年下の新田浩貴が主戦級投手に成長、渡部と新田の継投で勝ち進むことが多くなった。継投の際、渡部と新田はベンチに下がらず、ライトの矢野と交代することが多くなった。
センバツ大会の初戦、松山商は宇都宮工に3-7で敗れ、前年夏に続いて初戦敗退を喫した。夏の大会まで約100日。選手たちは「これまで以上に練習は厳しくなる」と覚悟せざるをえなくなった。
そんな状況下で澤田の教え子であるコーチによる暴力的指導が学校内で問題となり、コーチがチームを離れることになった。そのコーチは、まじめに練習に取り組むものの積極性に欠ける矢野にとりわけ厳しく当たり、何度も「矢野を外しましょう」と澤田に進言していた。
コーチの入れ替えがチームに影響を与えたかどうかは分からないが、松山商は3季連続で甲子園にコマを進めることになった。1回戦で東海大三高(長野)を8-0で下し6年ぶりの甲子園勝利を挙げると、その後も東海大菅生(東京)、新野(徳島)、鹿児島実、福井商を破って決勝にコマを進めた。27年ぶりの決勝進出である。
