2026年3月22日(日)

オトナの教養 週末の一冊

2026年3月22日

7年間の「控え」経験

 準レギュラーだった矢野をここ一番の場面で起用した澤田の球歴も注目しておかなければなるまい。捕手出身の澤田は72年に松山商に入学、卒業後は駒沢大学に進学し、強豪チームで7年間を過ごしたが、いつも控え選手だった。

 2人の兄はやはり松山商の捕手で名選手として鳴らした。とくに長兄の悟はキャプテンとして66年の第48回大会の準優勝に貢献した。

 松山商ではいつも優秀な兄と比較され、「澤田の弟はたいしたことないのう…」という声も聞こえてきたという。後にプロ野球の巨人で活躍する西本聖が同期にいたが、澤田たちは甲子園に出場できなかった。

 駒大を卒業後、一般企業に内定していたが、松山商の野球部長の先生から「教職を取ってコーチとして戻るように」と誘われ、80年4月、情報処理科の教員として母校に戻った。2年後、野球部の監督に松山商OBで、社会人野球の丸善石油の監督の経験もある窪田欣也が就任、澤田はコーチとして低迷していた野球部の立て直しに着手した。

 窪田監督のもと、松山商は着実にチーム力が強化し、84年に春夏連続で甲子園出場を果たした。センバツ大会は初戦で敗退したが、夏は準々決勝で清原和博、桑田真澄を擁するPL学園に1-2で惜敗したものの8強入りし、古豪復活を印象付けた。さらに86年の夏は「夏将軍」の異名を存分なく発揮し、準優勝。窪田―澤田のコンビで全国制覇が手の届くところまできた。

名将一色監督の教え

 88年にも松山商は夏の甲子園にコマを進めたが、まさかの初戦敗退を喫した。窪田は監督の座を澤田に譲ることにした。澤田は31歳。青年監督の誕生だった。

 高校、大学の7年間、控え選手として過ごし、華々しい活躍とは無縁だった。その澤田が監督就任に当たって掲げた部訓が「日本一のボール拾いになれ」だ。

 野球をするからには、誰だって試合で活躍したい。エースになりたい、四番打者になりたい。自ら望んで、ボール拾いをする人間はいないだろう。しかし、人が嫌がることでも日本一を目指せ。目立たないことを一生懸命に! 日本一になれるくらいに打ち込めば、個人もチームも絶対に強くなる――。

 澤田の造語ではない。高校時代に指導を受けた一色俊作監督が言っていた言葉だという。澤田にとって一色は鬼のように厳しい監督で、近寄りがたい存在だったというが、ミーティング中に心構えとして教えられた言葉がずっと頭に残っていたといい、監督になったら部訓にしようと決めていたという。

 「高校野球の基本は反復練習、繰り返しの練習が大事なんです。理論ばかりが先走ってしまって頭でっかちになっていたら、できることもできない。体に覚え込まさなかったら、試合では使えん。一色さんはそんなことを教えてくれたように思います」(同書45頁)

 松山商で澤田の同期でプロ入り後、巨人などで通算165勝を挙げた西本は指導者としての澤田をこう評している。「精神的な強さを持っている人ですね。試合に出ていた人間には分からないことを控えの選手はよく知っています。野球をするうえで大切な考え方や気持ちを、彼が一番わかっているんじゃないでしょうか」(同書47~48頁)

 控えに回っても腐らず、努力を続けた矢野の姿勢をいつも見逃さなかった「控え」の先輩である澤田。指導者としての眼力が最高の舞台で「奇跡のバックホーム」という大輪を咲かせた。

『日本一のボール拾いになれ』
元永知宏著
2024年東京ニュース社刊
¥1,650 税込 
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