もうひとつ。むかし日本には地域含め様々な共同体があったが、それらが壊れ、みんなが持っている社会の共通イメージが「学校」に集約されている。ここに問題がある。当然だが学校には先生がいる。だが、現実社会にはいくら探しても先生はいない。強制力を持って正義を実現してくれる第三者もいない。にもかかわらず、SNS上では皆で「悪い子」を探し出し、「先生に言いつける」ような態度が横行している。その点でもSNSはますます非現実的な世界になっている。
戦争はとまるのか?
日本が持つべきリアリズム
戦争は悪だ。しかし、戦争をとめるための戦争もまた戦争である。ここに矛盾がある。この状況を乗り越えるには宗教・哲学の革命が必要だろうが、そんなものがありうるかどうかはわからない。
人間の本質は変わらない。個人は賢くなったとしても、人間という群れは賢くならない。過去を知らない新世代がどんどん現れる。そして愚かなことを繰り返す。その現実の前に哲学は無力だ。
その前提で言えば、一人ひとりの人間が大文字の正義に流されず、「自分の幸せが大切である」という小さな幸せにとどまることは大事なことだ。それは利己主義ではない。人間が自分や自分の家族の幸せを願うことは自然なことだし、それこそが最終的に社会が一方向に流れていくときに歯止めとなる。
それはいわゆる絶対平和主義とは異なる。平和を叫んでいれば平和が来るわけではない。私は「平和教育の充実」と「軍事力の増強」は両立するという考えである。
平和主義は重要だ。日本は平和主義を堂々と掲げ、自分からは絶対に戦争はしないと世界に訴えるべきだ。しかしそのためにも、最低限の自主的な防衛力を持つ必要がある。そうしたリアリズムを持つべきだ。
第2次トランプ政権の米国は、国際法をも無視する「何でもあり」の国になってしまった。北大西洋条約機構(NATO)からの離脱もあると言われる。そのような変化を前提として、日本も長期的視野をもたねばならない。今後もしばらく日米同盟が基軸であることに変わりはないだろうが、他の国々とも関係を強めるバランス感覚が大切だ。
中国との関係もそうである。昨年11月の台湾有事をめぐる高市早苗首相の国会答弁以降、日中関係は冷え込んでいる。しかしそれでも、政府と別に民間のチャンネルを持ち、市民交流を続けていくことは重要である。社会のパイプが太ければ、政治が揺らいだとしても平和は簡単には揺らがない。これは中国に限らず、どの国に対しても同じである。
かつて、カントは『永遠平和のために』の中で、永遠平和の諸条件として「訪問権」を挙げた(上図参照)。各国の人間が相手の国を自由に訪問することができる権利だ。カントの時代は外交官など政府高官の権利を指したが、私はそれを「観光客」まで拡張することを提案している。政府間の関係が厳しくても、ロシアや中国の観光客はいまだに来日している。認知戦の発想だと彼らも危険だという考えになるが、この状況はある意味で武器がいらない安全保障にもなりうると考える。

