8月の千葉の街は、陽が傾いても道路や大気の底に蒸し上げるような熱を残していた。その炎暑を潜り抜けて、26歳になる車いすの青年がJR本千葉駅に近い喫茶店に一人でスッと入って来た。サッカー日本代表がワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で初めて決勝トーナメントに進出した2010年のことである。
W杯の熱気がまだ残っていたうえ、青年には付き添う人もなく、その所作もあまりに自然だったため、待ち合わせていた編集者やライター以外は、胸板の厚い彼が、08年のパラリンピック北京大会で金メダルを獲得した国枝慎吾であることに気付く人はいなかった。
このころ、『Wedge』では「あの負けがあってこそ」という連載を続けていた。国枝はライターの大元よしきのインタビューに応じ、転機になった04年のアテネ大会シングルスの負けをゆっくりと振り返った。ダブルスで金メダルを獲りながら、シングルスは準々決勝で世界ランク2位の選手にフォアハンドのクロスショットを決められたのだった。
「どうにも手が届きませんでした。僕には無くて、相手にはあったものです。最後の一球だけは絶対に憶えておこうと心に刻み込みました」
届かなかったその一球を自分のものにするため、ライン際を走って、守って、粘って、崩して、相手のミスを誘うプレースタイルを捨てた。ラケットの握り方から変え、弾道の低いショットでスピード勝負を仕掛ける超攻撃的スタイルに転じたのだった。そして4年後の北京大会で世界の頂点に立ち、日本人初のプロ車いすテニスプレーヤーとなった。
しかし、喫茶店の片隅で国枝はそれをことさらに誇るでもなく、普通の野球少年だった自分が脊髄腫瘍による下半身麻痺に見舞われたことを嘆くでもなく、11歳で出会った車いすテニスで挑戦を続けていることを淡々と話した。
自分が弱い人間であることも認めた。国枝は試合前にいつも負けることを考えてしまうのだ。
ラケットには「俺は最強だ!」と書き込んでいる。それで弱い自分を励ましていることも打ち明け、「挑戦し続ける人生にしたい」という言葉を置いて、狭い店内を車いすでまた、スッと出ていった。
編集者はどこか晴れやかな心持ちに包まれた。もう少し言えば、国枝が編集者たちの胸に残していったのは、青年のさらなる成長の可能性を感じさせる清爽な空気だ。物語はまだ終わりではない、という発展途上の人間が、一流のオーラに包まれる前に振りまく、明朗で前向きの気分といってもいいかもしれない。
