昨年10月、大手広告代理店である電通に勤務していた高橋まつりさんが、過重労働が原因で自殺したと労災認定され、長時間労働に対し同社へ世間の厳しい目が向けられた。
また、学校でいじめに合い、自殺に及んでしまったというニュースを耳にすることも度々ある。
自殺やその背景について、自殺当時は注目されても、その後法廷では何が争われているのかはなかなか聞かない。過労自殺、いじめ自殺の損害賠償請求裁判が、どのような論理で法廷で争われ、社会学の立場からはどのように見ることができるのか。
『自殺の歴史社会学』(青弓社)の共著者の一人である明治学院大学社会学部の元森絵里子准教授に話を聞いた。
――一時期の年間自殺者3万人超からは下回ったとはいえ、現在でも自殺のニュースを目にすることは多いと感じます。今回、自殺をテーマにした理由とは?
元森:歴史社会学の研究会を共著者である貞包英之さんや野上元さんたちと開くにあたり、共通のテーマを設定して歴史社会学の方法や視角を考えることになりました。私たちの社会は、「人は死にたくないはず」ということを前提に、「人が自ら死を選んでしまう社会は何かがおかしい」と考えがちです。しかし、それは自明でしょうか。自死が美学と考えられた時代もあります。そういった社会と個人の意志の関係性の歴史性、そして近代的個人や主体、社会性といった社会学が取り組んできた問題を改めて考えられるテーマとして「自殺」を選びました。
――元森先生は、今回の本で「過労自殺」と「いじめ自殺」の章を担当しています。昨年も電通の新入社員の自殺をめぐり世論の注目が集まりました。「過労自殺」について考えようと思ったのはどうしてでしょうか?
元森:近代社会では、自殺は自殺者の意志により行われると信じられて来ました。もちろん、その意志は、貧苦や病苦によって生じているという意見も受け入れられてきましたが、司法においては、自殺の意志なるものが想定されてきました。他の原因も関係したかもしれないが、死の責任はそれを選んだ本人にあるとされがちだったのです。しかし、過労自殺の歴史的転換点となった電通過労自殺裁判(91年に電通社員の男性が自殺。00年に最高裁で自殺に対する企業の責任が認められた)においては、本人の意志は免責され、過重労働が原因で精神の病に罹患したために自殺した(自殺は当人の意志ではなく、死の責任は企業にある)と法廷では判断されました。
この電通の過労自殺裁判に触れている慶應義塾大学文学部の北中淳子教授の「「意志的な死」と病理の狭間で」(2003)などの論文では、自殺を個人の意志によるものではなく、精神の病とみなす傾向が現れてきたことが指摘されています。それと同時に、それを法廷で認めさせた過労自殺裁判の目的が過重労働を課す会社・社会を問い正すことだったように、それが社会問題化のうねりとも関係していると書かれていました。そこで、現代の自殺を考えるには、個人の意志と精神の病と社会問題という3つの説明の拮抗関係を見る必要があると考え、過労自殺について調べることにしました。