2000年代に入ると、日本社会で自殺対策が進みました。「自殺対策基本法」が2006年に制定され、2007年には「自殺総合対策大綱」が閣議決定されます。この自殺対策の中では、うつ病に罹患し、自殺しないようメンタルヘルス対策の重要性が謳われる傾向があります。労働現場でも、社員をうつにしない社会にしましょうと、15年12月から従業員50人以上の事業所でストレスチェックが義務付けられました。しかし、労働時間の短縮につながるかと言えば、そこは曖昧なままだったんです。そもそも、電通の裁判などで使われた精神障害に罹患し自殺したというのは、あくまで裁判に勝ち、企業側の責任を認めさせるためのレトリックだったはずです。メンタルヘルスばかりが強調されて、過重労働削減の方向へ進まないのでは意味がありません。むしろ、メンタルヘルスを管理できない本人の責任問題が回避してしまう可能性すらあります。自殺は、精神の病か、社会の問題か、本人の意志の問題かという点は、未だ拮抗しているのです。
2014年に過労死等防止対策推進法が制定され、過労自殺は自殺問題とは別に、労働・社会問題であることが再確認されました。今回の電通事件をめぐる関係者の動きや報道を見れば、過労自殺をめぐって、社会の理解が再度変わっていく可能性はあると思っています。
――次にもう1つの章である「いじめ自殺」の話題に移りたいと思います。いじめ自殺もよく耳にします。
元森:いじめ自殺で毎年多くの子どもを失っているというイメージを多くの人が抱いているかもしれませんが、実際には統計史上最多でも2013年の9件です。こうしたいじめ自殺がどうメディアで語られるかについては、教育社会学などの研究の蓄積があります。
子どもという存在が自殺をするというのは、世間一般的にも受け入れづらい出来事だと思います。そこで、子どもの死が社会でどのような決着をつけられているかを調べてみようと、いじめ自殺をめぐる裁判の論理に注目しました。
――よく話題になる論点として、生徒がいじめられている事実を学校は知っていたのか、そしてその責任はどこまで負うべきかというのがあります。判例を調べる限り、そのあたりはどうでしょうか?
元森:今回、調べた限り、電通裁判以来趨勢が変わった過労自殺とは異なり、いじめ自殺に対する学校の責任を認めた判例は非常に少ないことがわかりました。
裁判では、いじめの結果、心身の傷や自殺に対する学校の責任が認められるには、そのような結果を学校が予見できたはずだということが必要になります。そこで、いじめ自殺の裁判では、自殺という結果まで予見できたとみなせるかが、問題となってきました。
最初期は、自殺は生徒の意志によるものであり、学校は自殺の意志までを予見して予防することはできなくても仕方がないと判断されました。
しかしその後、東京都の中野富士見中学でのいじめ自殺事件の判例が、現在まで続くスタンダードとなっていきます。そのポイントは4点あります。1点目にいじめの事実認定、2点目に学校側の安全配慮義務違反の認定、3点目に損害賠償範囲の認定。ここで予見可能性が問われ、自殺までの責任を認めるかどうかが問われます。自殺までの責任が認められた場合は、4点目に過失相殺の認定に進みます。これらの4点について詳細な検討を行い、一つひとつ判断していく判例が定着しています。
その結果、いじめの事実が認定されなかったり、学校は義務を果たしていたとされたり、いじめを止められず生徒に心身の傷を負わせた責任は認めても、自殺までの責任はないとされたりすることが多く、いじめ自殺までの学校の責任は認められにくいのです。ただ、自殺の予見可能性を問うときに、当人の意志という観点で考えない判例も増えてくるなど、変化は見られます。