8月8日、米国務省は、今年3月に英ソールズベリーで起きた神経ガス「ノビチョク」による元ロシアスパイ父娘に対する暗殺未遂事件を受けて、生物化学兵器法(CBW Act、正式にはChemical and Biological Weapons Control and Warfare Elimination Act)の規定に基づき、ロシアに対し制裁を発動することを公表した。米国はロシアがこの事件で「化学兵器または生物兵器を国際法に違反して使用した」ことを認定し、これがCBW法に基づく制裁の引き金を引いたということである。原則として「国家安全保障にとって機微な物品あるいは技術」のロシアへの輸出が禁止となる。若干の例外は設けられており、ロシアと協力関係にある宇宙開発関連の機材や技術がその例のようである。
この法律によれば、90日以内にロシアが今後生物化学兵器を使用しないことを保証する、あるいはロシアがそのことを保証するために現場査察を認めるといった一定の基準を充たさない場合には、より厳格な第二段階の制裁措置に移行するとされている。第二段階は、対ロシア融資の禁止、対ロシア輸出入の禁止、ロシア航空機の米国乗り入れ禁止、外交関係の格下げなどが含まれ得る。ロシアは事件への関与を全面的に否定しているわけであるから、この種の基準が充たされる筈もなく、第二段階への移行は必定である。この法律は行政府の裁量権を多くは認めておらず、ホワイトハウスはこの制裁に躊躇したが、下院外交委員会のロイス委員長(共和党)が推進したものだとの報道がある。
制裁の発表を受けて、ロシアの通貨ルーブルやロシアの株が大幅下落した。クリミア併合に対する米国とEUの制裁は、ロシアのGDPを年間0.5%下げたに過ぎないとの見積もりもあるが、今回の制裁は、ロシア経済に対する更なる締め付けとなる。ロシア側は、報復として、米国証券の保有削減をシルアノフ財務相が表明するなどしているが、打つ手がほとんどないと言ってよいであろう。
今回の措置に対し、英政府報道官は、直ちにこれを歓迎する声明を発表している。米国の制裁は、犯罪の現場となった英国の措置よりも先を行く厳しい措置ではあるが、米国務省としては、今回の制裁は法律に基づきその法律が定める行動を取ったに過ぎないということであろう。去る3月に欧州と協調してロシア外交官を国外追放して以降、新たな情報を得て今回の措置に至ったということではないようである。
7月のヘルシンキでの米ロ首脳会談では、トランプのプーチンに対する迎合ぶりが際立ったが、それは大きな反発を招いた。かえって対ロ関係の改善を遠のかせる結果になったようにも思われる。今回の措置は下院外交委員会のロイス委員長主導で行われたとの報道が示す通り、米議会は党派を問わずロシアに厳しい。世論調査においてもトランプ支持層がロシアに甘いというわけではない。トランプは外交政策を国内の選挙で票になるかどうかで判断する傾向が強いが、対ロ関係の改善は票に繋がりそうもない。米ロ関係が好転する兆しは当面ないと言ってよいであろう。
なお、8月1日付けのフィナンシャル・タイムス紙社説‘The tightening vice of US sanctions on Moscow’は、「制裁には行動を改めれば制裁は解除されるとの確実性があるべきだが、米国の対ロ制裁は解除されることはないと、ロシアがそのように受け取るリスクがある」と批判的である。確かに、CBW法による制裁はエスカレートする危険があり、両国の直接的な対決となる可能性がある。しかし、解除条件は記されている。問題は、それがロシアがおよそ充たす筈のない解除条件であることだが、それをもって法律の欠陥のように言うのは、敵に塩を送るようなことで、おかしなことだと思われる。米国務省の今回の措置は、化学兵器の使用は容認できないとのメッセージを国際社会に強く発するものであり、適切なものと評価すべきであろう。
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