――一方で、本書のような、絵を見るための知識、つまりビジュアルリテラシーを身につけて見るのではなく、感性で見れば良いんだという意見もあります。
秋田:美術教育を受けた人が、感性を使って見ていないかと言われるとそうとは言い切れません。自身の知識や体験、言葉にならないようなものを総動員して見る行為を「感性で見る」というのであれば、知識が感性の一部になっているので、感性と知識を明確にわけることはできません。
本書で示したような見方は、決して感覚的な見方や感受性を縛ったり、抑圧するものではなく、むしろ感じていることを鮮明にしたり言語化したり、他の人が感じていることをより理解するための補助線になるのではないでしょうか。
――少なくとも私の経験上、学校などでそうした美術教育を受けた覚えがないのですが、それはなぜしょうか?
秋田:まず、さきほどお話した、型にはめてしまう危険性を考慮してのこともあると思います。もう一つ考えられるのは、日本の、特に大学教育の構造的な問題だと思います。アメリカの総合大学では、実技専攻も美術史専攻も美術教育も同じ学部内にあるので交流があります。日本の大学では、美術史は文学部、美術教育は教育学部、実技は美術大学とわかれてしまい交流が少ないのが問題です。
――絵を見て理解するとは結局どういうことなのでしょうか?
秋田:見るという行為は、ただ視覚情報を処理しているだけでなく、過去の記憶の想起や連想が同時に起きるので、処理しきれなくて難しいと感じてしまうのかもしれません。実際、絵のような視覚的な情報は、枠のかけ方次第でさまざまに情報が取れます。それは卵のようなもので、ゆで卵にも、スクランブルエッグにも、ケーキにもなれば、黄身だけでも白身だけでも使えます。卵のように使い方次第、絵の場合では枠のかけ方次第で、読み取れる情報が違うのが視覚情報の特徴です。
自分がどういう目的で見るのか? というゴール設定が大事だと思います。楽しみたいか、観察力を高めたいか、資料として見るか。それによって、見方も変わるし、得られる情報は違ってくるでしょう。
――絵を見に美術館へ行くのは、なかなか敷居が高いと感じる方も多いと思うのですが、そんな方にメッセージはありますか?
秋田:ビジネスパーソンの間でアートが注目されているからと言って、義務感で「知らないといけない」とは思ってほしくないですね。余裕があれば、気楽に楽しみ、あくまでも自身の生活を豊かにするものと考えてください。たとえば、色についての知識があれば、部屋に何かを飾る際に楽しくなると思います。
また、美術館はもちろん素晴らしいですが、美術館へ行かなくても作品に触れることはできます。デザインに関しては複製でも見られます。現役の美術家は、商業デザインの世界でも活躍しています。そういった人たちがつくるポスターや雑誌の表紙、映画でも、日常的に触れる視覚情報はたくさんあります。そういうものに意識的に触れるだけでも楽しいし、見る眼が養われると思います。
センスや知識に頼らない絵の見方講座
自分の眼で見るはじめの一歩――『吹け、吹け、冬の風』と『オフィーリア』|あさひてらす
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