2024年12月22日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2020年7月12日

(2019.10.3~12/3 62日間 総費用18万2000円〈航空券含む〉)

終わりの見えないインド旅

デリーの下町の通り。朝8時頃なのでまだ糞尿やゴミが散乱していない

 若いころニューデリー、ボンベイに何度か短期出張したことがある。それから30年定年退職して2014年から本格的に海外放浪を始めた。最初のインド放浪は2016年夏季の北インド3カ月、次が2017年早春の東インド&ネパール2カ月、そして今回の秋の西インド2カ月。

 合計7カ月もインドを歩いたことになるが、中央インド、南インド、さらにはミャンマー・中国との国境地帯などまだまだ半分以上も未踏の地が残っている。

 世の中には“インド好き”の日本人や欧米人が“不思議”と多い。率直なところ筆者は決してインドが好きではない。インドの町はゴミと糞尿と排ガスと埃まみれで、バスや列車はすし詰め満員御礼、そしてタフで油断ならぬインド人が外国人観光客を狙っている。

 筆者がインドへ行くのは“怖いもの見たさ”という好奇心、そしてインドを極めなければ地球をすべて歩いたことにはならないという“一種の義務感”からであると思う。インドの何が嫌いなのか。本稿では限りなく偏見に満ちた私見を整理してみたい。

インドの街路は地球環境破壊の万華鏡

アーメダバードの階段井戸

 インドの断トツワーストは街の通りである。30年前と変わらない。自動車、バイク、オート三輪、人力三輪、それに馬車や手押し車(さらに牛車、北西部では駱駝も)の大渋滞。この隙間を無数の通行人が歩く。

 道端には物乞いがおり、昼間も寝ている路上生活者も多い。そして避けようのないのが超ド級の空気汚染。有象無象の旧式車両が濛々と排ガスを吐き出しながら元気に走り回っている。

 炎天下、排ガス・糞尿・生活ごみの悪臭漂う街路を重いバックパックを持って歩くのはかなりの覚悟が必要である。

 インドの街路では無数のドライバーによる無意味な警笛の競演に悩まされる。特にバイクの甲高い警笛が心臓に悪い。背後から至近距離で鳴らされると轢き殺されるのではないかとギョッとする。

 インドのドライバーにとっては警笛を鳴らすのは一種のカタルシスのようだ。サンチーの仏教遺跡に向かう公共バスの運転手は、郊外の空いている道路にも関わらず、絶えず警笛を打楽器のように鳴らしていた。インド人にとって警笛は鼻歌のようなものなのだ。

 グジャラート州のブージでは払暁からモスクの尖塔のラウドスピーカーから民衆に礼拝を呼びかけるアザーンの大号令が鳴り響いた。ほぼ同時にヒンズー寺院からも対抗するように大音響で鉦と太鼓でカンカンドンドンと始まった。それから演歌調のヒンズーの御詠歌が朗々と流れる。なんとも朝から賑やかである。

 筆者が想像するにインド人は日本人や欧米人よりも騒音耐性が高いのではないだろうか。

糞尿とゴミが難敵

 インドの街路では排ガス・騒音意外に糞尿とゴミが難敵である。毎日早朝に住民(おそらく道路清掃を生業とするカーストなのだろう)が粗末なほうきで清掃している。それでも昼頃には新たに発生する糞尿とゴミが溜まり、夕刻には足の踏み場もなくなる。

 糞尿は聖なる牛が垂れ流すことが最大の要因であるが、馬・ロバ・犬の落とし物も多い。ゴミに至っては商店や民家から勢いよく家庭ゴミを街路に捨てる場面に頻繁に遭遇する。

 バスや列車では車窓からゴミを捨てるのが作法である。筆者が車内でゴミを捨てようとゴミ箱を探してキョロキョロしているといつも同乗者から「窓から投げろ」と声を掛けられる。

 町に住んでいる無数の聖牛が自由に排泄することは止められないので毎日一回掃除が必要となる。であるならゴミも街路に捨てて糞尿と一緒に掃除すればいいという論理なのだろうか。

 ジャイプールで乗合バスに乗っている時だった。隣の5歳くらいの子供が菓子袋を床に落としたので拾ってやったら不機嫌顔で窓から外に放り投げた。大人を見習って自分の座席以外はゴミ捨て場という作法が定着しているのだろう。

 グジャラート州の各地には階段井戸と呼ばれる壮麗な建造物で覆われた地下数十メートルにも及ぶ深い井戸がある。一部は世界遺産にも指定され観光名所になっている。残念ながら筆者が訪れたジュナーガルとアーメダバードの階段井戸は「ゴミ捨て禁止」の看板にも関わらず、地底の井戸水の水面は投げ込まれたペットボトルで覆われていた。

聖地プシューカルで記念撮影する若者グループ

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