2024年11月23日(土)

Wedge REPORT

2020年10月23日

義父からの事業継承と自己否定による事業見直し

 「三菱重工を早く辞めて、ウチに来て欲しい」

 社会人二年目になって間もない朝霧重治に対し、創業者は秋波を送る。大きな設備投資の断行と前後してだった。

 中小企業の経営にとって、最も重要なものとして事業承継が挙げられる。自分が立ち上げた事業を誰に引き継がせるのか。娘婿なら、後継者の資格としては申し分ない。もちろん、人物としての資質も認めてだったろう。

 とりわけビール事業は投資だけではなく、この年にドイツからブラウンマイスターとしてクリスチャン・ミッターバウアーを招聘。ビール部門の社員たちは、5年にわたりビール造りの指導を受けていく。

 朝霧が協同商事に入社したのは97年10月。このとき、ビール事業の陣容は6人だった(現在は約30人)。

 しかし、地ビールブームは潮が引くように去っていく。生産能力を20倍に引き上げる設備投資をしただけに、これは一大事だった。

 また、大企業を短期間で辞めて転職した朝霧にとっても、潮目が変わっていくのは痛手だった。個人としても、結婚を予定しているのに、会社の先々が読めない状況に陥っていく。

 地ビールブームがあっけなく去った背景は、このコーナーで何度か指摘したが、品質に問題のある商品が出回ったことが挙げられる。「地ビールは、値段が高いのに美味しくない」というイメージが定着してしまう。この結果、高品位な製品をつくっているメーカーを含め、地ビール全体が地盤沈下していった。

 97年の入社時に、社内での権限が朝霧にあったわけではない。それでも「どうやってビール事業を持続可能な成長軌道に導けるのか、真剣に考え続けました」。

 2002年には結婚。そして03年に副社長に就任したとき、ある結論を出す。

「従来の文脈のままで、ビール事業を継続するのは難しい。抜本的に事業を見直す必要がある」、と。

 このときから、あるべき姿を模索し続ける。

 前編でも触れたが、ビールの事業改革を実行に移したのは06年10月。商品ブランドを含めて事業を一新したのだ。幸嘉からは「すべてを任せる。できるだけ早くやれ」と言われていた。ビール事業は赤字に陥り、会社の経営は追い詰められていたのだ。

 大掛かりな改革は、どこの組織にも時として求められる。しかし、成功するケースとしないケースとにわかれてしまう。

 変更された商品や戦略などに目がいきがちだが、大きなポイントになるのは実行する人である。

 なぜなら、経営は人で決まるからだ。

 工場の稼働率を上げるための他社(地ビールメーカー)からのOEM生産をやめ、自社製品も見直していく。一部商品の終売やパッケージ変更まで、前回述べた。

 OEMなどは「ご当地ビールをやりませんか」と朝霧自身が全国を営業して受注してきたが、自分からやめてしまう。自己否定から入ったのだ。

「地ビールは、高いのに美味しくない」というイメージが定着していたため、まずは「地ビール」というカテゴリーから一旦、抜ける必要があると、朝霧は考えた。

 地ビールに代えてメインテーマとしたのが、「アメリカでムーブメントが巻き起こっていたクラフトビールでした。地ビールという”どこで(Where)”造るかという看板を下ろして、クラフトという”どうやって(How)”造るかに、コンセプトを一新させたのです」。

 2000年代半ばのこの頃、クラフトビールは米国で急成長を始めていた。

 その理由の一つは、卸売業者がクラフトビールを扱うようになったため。それまでは、バドワイザーのアンハイザーブッシュ(08年からアンハイザー・ブッシュ・インベブ)などの大手が卸を支配し続けていた。バーやレストランの一部が、ライトタイプの”アメリカンビール”(バドワイザーやミラーなど)ばかりではなく、ドイツやオランダの個性的なビールを扱いはじめていて、ビール市場が多様化してきていたことが、どうやら背景としてある。

 また、ビール大手は豊富な資金力により3大ネットワークにCMを大がかりに流していたが、テレビの多チャンネル化が進み、「マスメディアを活用したマーケティング効果が薄れてきた」(スティーブ・ヒンディ著・クラフトビール革命)のも、大手ビールの人気が陰る理由だった(この姿は、現在の日本の姿とも重なる)。大手の凋落により、クラフトビールが伸びていく余地が広がった。


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