2024年12月3日(火)

Wedge REPORT

2020年10月23日

 地元産品を原料とする「テロワール」を売りとするコエドビールを展開する協同商事(コエドビール・前編『テロワールでクラフトビールを作る「コエド」』)が地ビールブーム衰退を乗り越えられたのは、娘婿として経営に参画した朝霧重治社長による〝変革〟があった。
(Alextov/gettyimages)

 コエドビールを展開する協同商事(埼玉県川越市)の朝霧重治社長は、1972年生まれで川越市の出身。映画「ウォーターボーイズ」の舞台とされる地元の県立川越高校に進学するが、「変わった奴が多い高校でした」などと笑う。ちなみに、埼玉県の場合、県立なのに川越高校や浦和高校など戦前に創立した高校は男子校、同じく川越女子高校などは女子校と、いまでも別学である。

 大学は一橋大学経済学部へ進む。

 「学生時代はバックパッカーとして、ヨーロッパやアジアを旅していました。ロンドンのパブやドイツのビアホールで、ビールを楽しみました。その後、(2006年に)ビール事業をやり直すとき、私の中にビールの原風景としてこれらの体験がありました」

 一橋大では、途中で商学部に転部し卒業したのは97年。新卒で三菱重工業に入社してプラント機械の海外営業に従事する。

 「三菱重工に長く勤める気持ちは、実は最初からなかった。ただし、大組織でなければできない仕事を、まずは経験してみたい気持ちがありました。今と違い、当時は新卒でないと大企業には入れなかったのです」

 この頃、大学生の就活は既に”氷河期”に突入していた。朝霧が臨んだ96年の就職戦線で、日産自動車などは採用がなかったほど。92年までの大量採用のバブル入社組と異なり、採用人数は少なく、その分将来的には出世はしやすい構造だった。しかも、安定したサラリーマン生活を手に入れていた。何しろ、三菱重工は、三菱銀行、三菱商事と並び我が国最大の企業グループである三菱グループの中核企業である。97年以降に経営破たんした名門証券会社や大手銀行などとは違っていた。

 なのに、朝霧には大企業で働くことでの未練は、端からなかった。「寄らば大樹」といった考えを持ち合わせていなかったといえよう。

 朝霧は学生時代から、フィアンセの父親である朝霧幸嘉(故人)が創業した協同商事で、繁忙期にアルバイトをしていた。

 もともと農産物商社だった農業ベンチャーの同社が、96年に地ビール事業を始めたとき、地ビールを供するドイツ料理のレストランを頻繁に手伝う。店は繁盛し、同時に”地ビールブーム”の熱狂も肌で感じる。

 地元産のサツマイモを原料とする地ビール(酒税法上は発泡酒)は、川越への観光客の急増にも助けられ人気となったのだ。

 翌97年、旺盛な需要にこたえるため新しいビール工場を建設する。生産能力を、96年の20倍に当たる年2000キロリットルに急拡大させてしまう。

 20倍に見合う生産量は求められたが、スタートダッシュの勢いに任せ、同社はまさに勝負に出た形だった。


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