格差は、広がっている。これは所得格差を示す「ジニ係数」に代表されるような、経済的な格差の話ではなく、精神的な格差を主とした、現代型の格差の話だ。昔は、幻想があった。市場が自由化し、サービス供給者も受給者も好きなものを提供し、選択できるようになると、個々が自分に最適なものを最良なコストで手に入れられるようになる。これが真の人々の充足に繋がるというのが、アダムスミスから始まる経済的神話の一つであった。
ただし、現実はそうではなかった。確かにそれは、経済的な最適解の一つといえるかもしれないが、エコシステムを破壊してしまい、人々の「精神的な充足」には決して繋がらなかったのだ。
具体例を挙げて説明しよう。分かりやすいのは「就活」と「婚活」だ。まず就職活動においては、昔は自由度が低かったため、「知り合いのおじさんに口をきいてもらい、地元の繋がりのある企業に就職する」ということが、ごくごく一般的であった。
しかし大手企業リクルートが1960年代、就職情報誌を発刊したことに始まり、幅広く企業の情報が就活生に届けられ、企業選びの選択の幅が広がった。そして90年代後半のインターネット黎明期、「リクナビ」を筆頭とした就職情報プラットフォームが普及すると、人や地域同士での情報格差はなくなり、学生と企業が自由にお互いを選択し合える時代になった。これは、一見すると非常に理に適っており、お互いにプラスばかりがもたらさせるように思われる。
ただし結果としては、「一部の優秀な学生ばかりが、企業の内定を大量にもらい」、「人気企業に学生が殺到し、中小企業は見向きもされない」という状態になってしまったのだ。これが、格差以外の何者であろうか。
「自由は幸福を保証しない」
婚活においても、全く同じことがいえる。昔は仲人という存在が一般的で、なんと昭和期に入るまで、お見合い結婚の確率が70%。恋愛結婚は15%も存在しない時代だったのだ。まさに「自分に見合ったほどほどの人と、ほどほどにマッチングして結婚する」という時代だ。
しかし、現代である。自由恋愛が加速し、マッチングアプリなどでいくらでも、会いたい相手に出会える時代となった。Instagramを代表とするSNSを見れば、キラキラしたインフルエンサーの華やかな世界を、いつでも身近に眺めることができる。
こうなってしまった現在、「もっと良い人がいるのではないか」と青い鳥を追いかけ続け、身の丈にあったマッチングで妥協せず、いつまでも結婚できなくなる人が続出しているのだ。
結果として、男性なら圧倒的金持ち、女性なら圧倒的美人のような、強みを持った一部の大人が相手を選びたい放題となり、「一強総取り」のような形で勝者となっているのが現実である。晩婚化、単身化が進んでいる理由の一つにこんな背景があるのではないか。
結局のところ、選択肢が増えて市場が自由化すると、強者による一強総取りの時代となり、そうでない人々が虐げられ、格差につぐ格差が相次いで行くという状況になるのだ。これらの事例から見られるように、「自由は幸福を保証しない」のである。
こうした状況に置かれた、現代の若者の負の側面を、『明日、私は誰かのカノジョ(略称:アスカノ)』(をのひなお、小学館)はありありと描き出している。本作の序章においては、「彼女代行サービス」というサービスにお金を払い、対価を支払う代わりにバーチャルな彼女と付き合うという男性たちが描かれる。まさに「恋愛」という市場において強者になれず、弾かれてしまった若者たちの姿だ。
一方、バーチャル彼女を演じる女子大生の「雪」は心にも体にも傷を抱えている。私の心には昔から黒くぽっかり空いた穴があってそれはいつだって私を孤独にさせた。私は未だにこの穴を埋めるすべを知らない」と語る。そして「お金って安心する。私を裏切らないから」と、お金を心の拠り所にしている。
こうしたストーリーを通じて、自由市場の中に放り込まれて頂点を目指していくのでなく、身の丈にあったところでほどほどに収まることが大事だ、というメッセージ性が伝わってくるのが本作品だ。結局のところ、幸福とは自らが選んで収まるべきものなのだ。
新自由主義の現代社会は、こうした状況が加速し、確実に「精神的貧困」の時代に向かっている。