昔、筆者はインドのガンジス河で三日三晩川辺に座って、病人や老人が生きたまま目の前で焼かれ、半焼けのまま河に流される姿を目の当たりにした。 その時、自分の人生観は180度転換した。実の子供をダリット(不可触選民)としてサバイバルさせるために子どもの片目を親がくり抜き、片手を斬り取るインドの現実を知った時に人間が生きることの本質を垣間見た。
50年前の放浪生活と10年前に癌を患って出家した僧侶の生活
放浪生活から帰国して50年が経過した。多少の紆余曲折はあったが、人並みに就職して、結婚して、子どもに恵まれて順風満帆の人生を送ることができた。 30年間のサラリーマン生活は幸運にもやりたい放題好きな仕事に打ち込むことができた。その後の20年間の経営者の時代も恵まれた環境下で人生の目的を達成できたかに見えた。
還暦を迎えるころには、子どもたちも良縁に恵まれ、やがて多くの孫たちに囲まれて、世間から見れば幸せな人生にみえたはずだ。
ところが長年の不摂生が祟って4大疾病が見つかった。4大疾病とは糖尿病、高脂血症、動脈硬化に加えて癌。 最後の癌が見つかった時には愕然とした。 そんなことがあって6年前に思うところがあって得度した。3年前には智探庵(寺院建築)が落成して癌も癒えて僧侶の生活を送っている。 その時には仕事ばかりが人生ではないと悟ったような気になった。
サラリーマン時代と後半の経営者時代の違いとは何だ?
経営者を退任するにあたって社員がお別れ会をしてくれた。実に清々しい気持ちで社員の皆さんのご好意を受けることができた。経営者を辞任することができたのは若い後継者に経営を任せ安心して自分は残った人生を自由に好きなことをしたかったのだ。つまり、同じ生活の繰り返しを高齢になるまですることは正直に言えば馬鹿馬鹿しいと思ったからだ。
「老いては子に従え」の例えの通り、老害を避けたいと思った。同時にそんな人生の岐路に立って考えたことを後世に何かを残したかったのだ。つまりレアメタル企業を退任して会社人生の総決算をしたのである。その何かというのが、筆者が歩んできた「異端の薦め」である。
異端児が社長になると会社は潰れる?
さて、退任するにあたって50年間の仕事生活を総括する必要に迫られた。サラリーマン生活の30年間と経営者生活の20年間は質的に全く違っていることは言うまでもない。そんな昔話も書いておきたい。
筆者の前職は繊維と化成品の専門商社の蝶理。発展目覚ましい昭和の景気の波に乗って成長した専門商社だったが「進取の気」と「夢のある企業文化」が魅力のある会社だった。
しかしながら2000年前後の金融不況と過大な不動産投資が次第に経営資源を圧迫したために大幅な経営の見直しが必要となった。その結果、筆者が所属していたレアメタル事業部門が経営見直しの対象となった。
サラリーマン生活を辞めて経営者になる決断は53歳の時に必要に迫られてやった。その当時の苦悩や事情は別の機会に譲るとして今回の目的は経営者として新会社アドバンストマテリアルジャパン(AMJ)の経営方針をどのようにして構築したかということである。
2002年頃の日本経済は金融危機の直後で会社は倒産寸前まで追い込まれていた。 そして悩んだ末に MBO(Management buyout)の手法を使って部門ごとの独立に挑戦したが銀行や協力会社の支援があって独立が達成された。
その時に考えたことは他社と同じことをしていては発展はできないし倒産することは時間の問題だと思った。その結果、「異端経営」を選択するしかなかったとも言える。広辞苑には「正統派に属さず常識にとらわれず自由奔放に行動する」とある。正攻法だけでは大手企業には勝ち目がないと考えたのだ。リスクをとってゆくことで競合他社との差別化戦略を選択したのである。些か心もとないが自分で選んできた道だから仕方がない。
異質の協力が経営の肝
当初新会社を始めるときの社員数はわずか10人だった。細々と守りの経営にこだわるよりも優秀な営業マンを集めることが急務であった。社員募集において真面目な人も応募して頂いたが戦争になった時にいくら優秀でも保身ばかり考えるタイプの社員は闘いには向いていないと思った。
数年後には社員の数は倍になっていた。そのときの社員構成は外人社員と日本人社員が半々だった。そんな零細企業が驚くことに大躍進をした。 その秘密が「異質の協力」であり「異端の薦め」である。