パリ講和会議で日本を巡るアジア太平洋地域の安全保障の問題はまだ完全には方が付いたわけではなかった。日本は大戦中、欧米列強不在の東アジアで自由にふるまい、地域大国としての立場に居心地の良さを感じていた。
そこで1921年に開かれたのがワシントン軍縮会議であった。ここにも黄禍論的思考がみられた。米国人には、日英同盟の存在に不快感を抱いている者が多かった。もし、日本と戦争となった場合、米国は、英国という兄弟国と戦わなくてはならないのかと危惧したのである。
結局、ワシントン会議は、日本を劣位な主要艦比率に押し込め、日英同盟を廃止する形で1922年に終了し、日本人の間に不満が残った。ただ、日本が曲がりなりにも米英の秩序に加わることに同意したため、太平洋に平和が訪れたかに見えた。1923年に発生した関東大震災には米国から大量の援助物資や義援金が寄せられ、日本の対米世論も好転した。
排日移民法で勢力増す「アジア主義」
そのような小康状態を一転させたのが、1924年に米連邦議会で成立した日本からの移民を一切禁止する条項を含む移民法であった。
この条項には「日本人」という文字は書かれていないが、文脈から人種を理由に日本人を狙い撃ちしたことは明らかであった。そのため日本ではこの移民法は「排日移民法」と呼ばれ、全国各地で反米集会が開かれるなど反対の声が上がった。米国映画の上映は自粛され、洋風のダンスが行われている会場には、日本刀を持った一団がなだれ込んだ。移民法改正を求める遺書を胸に切腹する者も現れた。
反米運動の盛り上がりの中、内村鑑三や新渡戸稲造といった親米派と見なされていた言論人の発言が説得力を失い、アジア諸国との連帯やアジア植民地の解放を説く「アジア主義」的な主張が急速に影響力を増し、アジア主義団体が複数誕生した。その中の一つである全亜細亜協会は、米国の人種差別に対抗することを目的として、「一朝事あるに際してはアジア洲は打って一丸となり白人の極東侵入に対抗」しなければならないと謳っていた。黄禍論に怯えていた米国は、自分たちの差別的な立法によって自ら黄禍論的現実へとつながる契機を作り出したと言える。
排日移民法が創り出した危険をいち早く感じたのが、当時はまだ数少なかった極東問題に詳しい米国人たちであった。米クラーク大学のジョージ・ブレークスリー教授は、米国のアジア人差別体質が排日移民法によって再認識されてしまったため、黄色人種という一体感が生まれ、日中同盟が実現するかもしれないと予言した。作家パール・バックも、排日移民法を契機として、日本人や中国人、インド人といったアジア人が対白人で連携するかもしれないと語った。