最高裁判所判決から学ぶ反対意見の価値
では次に、「とんがった」反対意見、それ自体について考えてみたい。
筆者は、交渉学に加えて、経済法(独占禁止法)なども専門としている。この法律の世界では、「反対意見」を受け入れる土壌があり、特に最高裁判所の判決書等を見るとおもしろい。
日本には、総勢15人の最高裁判事がいる。基本的には5人ずつ、3つの小法廷に分かれて担当するが、法律などが憲法に適合しているかどうかの判断を行う場合には大法廷、すなわち、15人全員で裁判に当たる。
最高裁が判断する事案は、基本的に解決が難しいものであり、裁判官の間で意見の食い違いが生じる。それでも裁判所は結論を出すことが求められ、最終的な判断は「多数意見」と呼ばれる。さらに、この多数意見に賛成しつつ、個人的な意見を述べるものを「補足意見」、結論には賛成しつつも、その根拠等が異なる場合は「意見」、結論に反対するものは「反対意見」と分類される。
このように最高裁には、各裁判官は自らの意見を示さなければならないという意見の表示制度が裁判所法で定められている。自分の意見を判決書等に残しておくことがルールとして決められているのである。
そこでは、「多数意見」ではないからあの判事はダメだ、というようなことはない。むしろ学界では、「反対意見」の方が評価される場合さえもある。
このように、さまざまな意見がテーブルに載せられる状態こそが議論の過程であり、お互いの意見を尊重し合いながらも、それぞれの判事の意見が明確に表明されていることが、創造的で最善な判決を下す上で要となっている。
冒頭に紹介した雑誌『Wedge』の特集では、アカデミア人材の活用が指摘されていたが、ちょうど本稿執筆中に、公正取引委員会委員に経済法学者の泉水文雄氏(神戸大学教授)が就任予定であると報道された。専門が筆者と同じで、審議会等でも一緒だったことがあるが、現在の経済法分野における第一人者の一人である。
こうしたアカデミア人材が国の重要なポストを担うことは、筆者もその世界にいる一人として前向きに捉えている。ぜひアカデミアの世界にいるからこその「とんがった」意見で貢献していただけたらと思う。
「悪魔の弁護人」を生かそう
日本人の「和の精神」について前述したが、一方で、集団極性化という現象を招く可能性も忘れてはならない。集団極性化とは、集団で意思決定する際に、極端な結論に至りやすい傾向を指す。反対意見もないままに、「それはいいですね」という流れで議論が進んでしまうと、最初に出た意見が支配的となり、その意見が合理的なものでなかった場合には、誤った意思決定につながる危険性がある。
そこで、あえて「悪魔の弁護人(devil’s advocate)」の役割の人を置くというやり方がある。語源は、列聖調査審問検事と言って、カトリックにおける列聖(模範的信者を聖人にすること)の検討の際に、その候補者に対してあえて批判的な意見を述べる人のことを指す。