きっかけはノーベル文学賞受賞
「癒すこと」についてさらに深く考えるようになったきっかけは、1994年、大江さんがノーベル文学賞を受賞したことだった。
そのニュースをたまたま滞在中の米国ミシガン州で知った。現地の新聞にそのニュースを伝える記事が掲載されていたのだ。
その記事の最後に「大江氏のご子息は障害を持って生まれた」と書かれていた。私は驚いた。そのことを知らなかったのだ。
学生時代に大江さんの小説に出会ってはいた。だが、そのプロットの複雑さと、性・暴力・政治を含む圧倒的な描写のために、それらの小説群とは距離を置いていた。
だが、この新聞記事を読んでから、小説の読み方としては邪道かもしれないが、家庭医が患者の病気の物語(ナラティブ)を聴くようにして大江さんの小説を読んでみた。すると、大江さんの作品群の登場人物のもつ独特な世界がとてもよく理解できることを発見して驚いたものだ。
障害をもった子どもと家族の苦悩
初期の作品『個人的な体験』(1964年)では、脳に奇形をもった息子が誕生したことで、父親が担当医から手術するか否かを問われる。手術を受ければ、生き延びたとしても息子には障害が残る。手術をしなければ、息子はすぐに死んでしまう。
困難な選択に迫られて苦悩する父親の物語だ。大江さんのその後の作品の多くは、障害をもった子どもとその家族の共生の物語になっている。
実際の大江さんの人生では、1963年に長男の光さんが中枢神経系の異常(おそらく脳髄膜瘤)をもって生まれる。小説中の父親と同様の困難な選択に迫られ、大江さんは逃げるように息子を残して広島へ行く。そこで出会ったのは原爆投下後の広島で復興に従事する決して「屈服しない人々」だった。
複数回の広島訪問のルポルタージュとして、『ヒロシマ・ノート』(1965年)が出版された。自身が被曝しつつも救護活動を続けた広島赤十字病院の重藤文夫院長が大江さんに語った、「なぜ広島の人間が苦しまねばならないか?」という不条理の問いを発し絶望した青年歯科医師を自殺からまもることができなかったエピソードは、私には読むのも辛い。
そのような未曾有の困難の中で人々が絶望しても、けっして屈服しない、屈服することを許されない人たちがいたのだ。個人的には、東日本大震災とそれに続く福島での放射線災害に遭遇してもなお「屈服しない人々」とイメージが重なる。
「毎日毎日おびただしい人々が街中から運ばれて来て死んでいきます。私たちにはもう十分な薬も包帯も無くなっている。無力です。こんなところで医療をしても無駄です。何の役にも立たないじゃないですか」
「君の気持ちと苦労はよくわかる。でも、傷を負い、痛みを訴える人々がいる限り、私たちはその人たちのために何かをしなければならないんだ。何とか助けなければならない。たとえ何も方法が残ってなくても」
このような会話が交わされたはずだ。後年、あるインタビューで大江さんは、その重藤院長の言葉が、大江さん自身に向けられたように感じたと語っている。
自分自身が「ヤスリにかけられている」ように感じ、しっかりと「立ち直る」ことができたと述懐していた。広島から帰った大江さんは、担当医師に光さんの手術を依頼する。