2024年5月19日(日)

お花畑の農業論にモノ申す

2023年5月2日

なぜ、コメの市場はなくなってしまったのか

 コメにこそ求められていたはずの市場だが、70年以上にわたって公的なものが存在していない。「羅針盤なき航海」の状態になっている。これは、1942年の「食糧管理法(食管法)」以来消えていない「クニガ・クニガ病」の「食管症状」が残存・継続しているからだといえよう。

 コメ流通の変化の歴史をひと通り概観しておきたい。

 江戸時代の「享保の改革」ごろから始めると、異常気象、飢饉の頻発、通貨改鋳と過剰流動性インフレ、新田開発によるコメの増産は、価格の暴騰・暴落を呼び、価値基準であるコメが不安定な時代が続いた。特に暴落下では、武士階級の給与・所得も下落するので、「買い気配の増加」=デマンドプルが求められた。コメの先物市場は、歴史的には、米価の上昇をねらって公許なされたといえよう。

 江戸と大坂(堂島米会所)に先渡&先物市場が公許されたのが1730年。ただ、消費市場の江戸では、買い気配増加の機能(価格の上昇圧力)を発揮できなかった。他方、集散市場の大坂は機能を発揮した。

 未着米や将来の収穫米も含まれたコメ切手は転々と流通していた。大坂に流入したコメの総合計は200万石(30万トン)ともいわれるので、これが何回転もすれば、当然のこと買い気配は強まる。

 明治維新以降も、引き続き現物、先渡、先物の各市場取引が続いたが、日清、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵など幾たびも戦争が続き、植民地である台湾、朝鮮の米の生産・移入状況も需給に影響を及ぼし、時代は「物資動員(配給)と価格統制の強化」を求めてきた。その象徴がいわゆる「大正のコメ騒動」であり、その先には、計画経済への傾斜とコメの配給統制が待っていた。

 1942年(昭和17年)には、食糧管理法が制定・施行され、完全なる統制へ移行、「コメ市場」は消えた。残ったのは、法律違反のヤミ米流通=自由米。当時の川柳には、『世の中は、星(陸軍)に錨(海軍)にヤミ横流し、正直者が馬鹿を見る』とある。

 戦後の復興によってコメの生産は増大し、67~69年(昭和42~44年)ごろには、1400万トン台のコメ大豊作が続き、政府も農協も「食管制度を守るため」と称し、強制割当減反(生産調整)と単収は低いが価格の高い良質米での需給調整と収入確保を目指す「自主流通制度」が「食管制度の枠内」で創設された。

 81年の食管法(最後の)改正では、「自主流通米が主で政府米は従」という線を明確に打ち出したが、なお食管法である以上、米価の基本的な考え方は、生産費・所得の補償が色濃く残った。農業者の扱いも「経営者ではなく労働者=労賃」であった。

 貿易の自由化を促進する93年のガットウルグアイラウンド農業合意を受け、食管法は廃止、「食糧法」が制定された。食管制度下の「自主流通米価格形成機構」は、「計画流通」の傘の下で、本格的なコメの現物市場として「自主流通米価格センター」に衣替えする。特徴は、「計画流通制度だから一定量の市場上場義務を伴う」ことにある。

 2004年には、食糧法の改正によりコメは完全な自由流通へ移行、計画流通制度は形骸化する。それまではJA全農が事実上唯一の売り手であったが、「上場義務」もなくなり、別の民間事業者が売り手になる機会が与えられた。自由な市場へと変貌を遂げることが期待されたが、JA全農が顧客の囲い込みを図るべく上場を取り止めて相対取引へと方針を切り替えため、センターは機能しなくなった。

 価格センターが11年には廃止され、現在の「相対価格と概算金・共同計算方式」に繋がる。いま公的に認知された市場は存在しない状況にある。


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