終戦交渉で注目した国「バチカン」
番組は時系列的に進んでいくが、ここではまず終戦直前の動きについてドキュメンタリーから学びたい。
日本は最終的に1945年7月26日の米国と英国、中国による「ポツダム宣言」の無条件降伏の宣言を受け入れて敗戦となった。これに先立つ2月のヤルタ会談でドイツが敗戦後にソ連が対日参戦する秘密協定が結ばれた。
それにもかかわらず、日本はソ連に和平の仲介の斡旋を依頼する方針だった。浅学菲才にして、これ以外の道はなかったのか疑問が解けなかった。ドキュメンタリーはその答えの一端がはっきりと見えた。
昭和天皇は開戦に至った場合、それを終わらせる和平の道を考えていたというのである。松田による御進講の際のご下問をみていくと、外交の視点から欧州、米国は当然として南米諸国の情勢まで関心を寄せていた。
敗戦の幕引きには結果として役立たたず、それは運命のいたずらともいえる。戦争に幕を引く際に「バチカン」がキーとなると考えていた。時計の針を1940年2月15日の御進講の時点にいったん戻そう。「戦時下の知られざる外交戦」の焦点である。
昭和天皇は松田に対して次のように御下問する。
「法王庁(バチカン)の反共主義と平和主義とはわが国の国策にも沿うところなるが故にバチカンとのある程度の協力は有益なることと見ゆるが、この点につき外務大臣の意向を松田より聞きただしおきくれたし」
松田は「承りました」と答えた。
日本大学教授(バチカン近現代史)の松本佐保は昭和天皇の意図を次のように推し量る。
「戦争を始める時点で出口をお考えであれば、バチカンは中立であり、世界的な情報収集能力もある。日本が戦争に向かっていくなかで、和平の方向に行くのか、戦争に向かうのか。材料として有益だと考えたと思う」
日本とバチカンは1942年5月に国交を樹立する。教皇のピウス12世に在法王庁特命全権公使の原田健が謁見(えっけん)を許される。その原田が敗戦直前に重要な情報をもたらすのはのちのことである。
両国の国交樹立に反発したのは米国である。バチカンに特使まで派遣した。バチカン国務省文書館長のヨハン・イックスは米国の抗議を一蹴した事情を説明する。
「教皇ピウス12世の狙いは、日本が占領する広大なアジアのカトリック信者の保護。米国が国交樹立を不適切だといってきてもバチカンは決めたことを変えなかった」
昭和天皇が皇太子時代に当時同盟国だった英国の招待を受けて、欧州を半年にわたって視察した際の最後の訪問地がバチカンだった。在日本バチカン大使館にはそのときの写真が壁に飾られている。
幻に消えた米国との和平交渉
終戦直前に再び戻る。1945年6月3日、在バチカン公使の原田健から極秘の公電が外務省に届いた。
「ローマ在住の米国人より和平問題に関して日本側と接触したきにつき橋渡しを依頼したしとの申し出あり」
米国が和平問題について日本と接触したいというのである。米国人とは、CIAの前身であるOSS諜報員のマーティン・キグリーであった。日本との接触の申し出は、バチカン国務省のヴァニョッツィ司教を通じたものだった。