この公電の内容のなかで、休戦条件としてはまず、占領地を還付すなわちもとにもどすことと陸海軍の武装解除を求めていた。「国体問題」については触れておらず、日本本土の占領も考慮しない、とあった。
日本側に残る公電の写しには、外務相の東郷茂徳が閲覧した印もついていた。しかし、この公電は御用掛の松田の手にも、おそらく天皇にも届かなかった。通常なら松田が目を通した可能性がある。
1945年6月14日の御進講のメモには次のようにある。昭和天皇に対して松田が「東京大空襲によって外務省が消失、調査不便、情報不手廻り(まわってこない)のためにこの3回は御休講」と。
外相の東郷も首相の鈴木貫太郎も軍の意向もあって、すでにソ連に和平の仲介を依頼する方向に舵を切っていた。
外務省は結局、原田健からの「バチカン電」に返信しなかった。歴史に「if」はないといわれるが、バチカン電の方向性を探っていれば広島、長崎に対する原爆投下もなかったかもしれない。もとより、原爆を開発した米国はその実験場として、日本の候補地をすでに選んでいた可能性は高い。「原爆投下まで日本を降伏させるな」という逸話である。
松田が迎えた終戦
御用掛の松田自身は、どのような戦争の幕引きを考えていたのだろうか。ソ連に和平の仲介を頼む政府の方針のもと、元首相の近衛文麿をロシアに特使として派遣する案が浮上していた。松田は1945年6月7日の日記に次のように記している。
「沖縄戦はいよいよ終末に近し。わが方勝算なく、日本全土を敵の空襲に委ねてなおかつ必勝完遂を唱う。童気壮(子どものような大人)というべし。
世界を挙げてこれを敵とし和平の考慮なし。結局ドイツの轍を踏むこと素人目にも明らかなり。ことにドイツよりも一層不利の結果を招くべし」
松田の御進講メモのなかに紛れていた文書から、彼なりに戦後を考えていたことがうかがえる。スイスの大使館からの文書で、差出人は米国の国務省にあって知日家であるジョセフ・グルーの対日和平声明を伝える内容だった。
「無条件降伏は日本国民の根絶または奴隷化にあらず。それは戦争の終わりを意味する。日本人の苦しみを長引かせてはならない」
松田は米国内に日本に融和的な考えがあることを昭和天皇に伝えようとした。
最後の御進講があったのは、1945年7月26日のことである。
「米国は太平洋において、日本と対立の地位にありといえども、ドイツに対するがごとくこれを根こそぎに破滅するがごときは、ソ連の勢力が存する限り同様には行われないでしょう」
終戦の日の日記に松田は記す。「正午の聖上放送を謹聴。思わす嗚咽(おえつ)に迫る」
日本に宣戦布告した国は最終的に40カ国に及んだ。外交戦の敗戦である。
松田は終戦の年の年末に退官した。そして、翌年1月20日69歳で亡くなった。
「外交戦」は戦時も平時も戦わなければならない時代である。松田の御進講のメモから学ぶことはこれからも多いだろう。取材班の熱意に感謝したい。