9月8日、国際オリンピック委員会は2020年夏季オリンピック大会を東京で開催すると決定した。今から50年前に行われた東京オリンピックでは、日本対ソビエト連邦の女子バレーボール決勝が66.8パーセントという驚くべきテレビ視聴率を獲得し、「東洋の魔女」として一大ムーブメントを巻き起こした。そのチームは、日本紡績貝塚工場チームのメンバーで固められていたという。
バレーボールはいかにして日本の工場で行われるようになったのか、また一大ムーブメントは当時の女性たちとどのような物語を共有していたのか。『「東洋の魔女」論』(イースト新書)を上梓した社会学者の新雅史氏に聞いた。
――前著『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書)も、今回の『「東洋の魔女」論』も、日本が戦後、高度成長を遂げる中で、人々が農村から都市へと労働のために移動する過程を描いていて、新さん自身その辺に興味があるのかなと思いました。
新雅史氏(以下新氏):そうですね。私は福岡県北九州市の出身ですが、この街は、近代になって急速に発展しました。街には八幡製鉄所があり、そこで働くために、他所の土地から多くの人が集まってきたのです。このような場所で育ったこともあり、農村から移動してきた人々が知らない土地でどのような生活をし、どのような夢や挫折を抱え込みながら街に根付くようになったのかが気になっていました。
そのような背景から、農村から離れて集団就職した人たちに関心を抱くようになりました。集団就職の場合、男性たちは中小企業で働くことが多く、個々バラバラになってしまう。女性たちは巨大な工場で働くことが多いため、職場に同郷の人がいたりと、それなりに地元のネットワークがあります。わたしは離農者の女性による文化に注目して紡績工場におけるバレーボールに注目しました。
前著とのつながりで言えば、人は消費しなければ生きていけないので、世界各地に消費の場は必要ですし、だからこそ商店街が生まれる理由も推測できるわけです。ですが、なぜ繊維工場に集団就職をした女性たちがバレーボールをプレーしたのでしょうか。また、なぜ、繊維工場に金メダルを獲得するチームが生まれたのか。たまたまバレーボールに適合的で、かつ猛練習についていくことができる根性のある女性たちが集まっていたのでしょうか。ですが、わたしは東洋の魔女を偶然として捉えたくなかった。当時の時代背景などいろいろな線が交差する中で、東京オリンピックで東洋の魔女が金メダルを獲得したことを「必然」として描きたかったんです。