艶やかな綺語をつらねた若い男女の恋と道義の物語が、人気作家の新しい境地を切り開くという期待はしかし、連載がすすむにつれていささか陰りをおびた。物語が動き出さずに、過剰な言葉が流離してゆく文体が、主題をすり抜ける。文明を批判する登場者の会話と風景や場面の描写がとめどなく続いて、しばしばその行く先が見失われる。
〈紅を弥生に包む昼酣(*3)なるに、春を抽んずる(*4)紫の濃き一点を、天地(*5)の眠れるなかに、鮮やかに滴らしたる如き女である。夢の世を夢より艶か(*6)に眺めしむる黒髪を、乱るゝなと畳める鬢(*7)の上には、玉虫貝を冴々(*8)と菫に刻んで、細き金脚にはつしと打ち込んでゐる。静かなる昼の、遠き世に心を奪ひ去らんとするを、黒き眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る‥‥〉
*3 酣 たけなわ
*4 抽んずる ぬきんずる
*5 天地 あめつち
*6 艶か あでやか
*7 鬢 びん(側面の髪)
*8 冴々 さえざえ
漱石が「嫌な女」を描いた理由
古代ギリシャの『プルターク英雄伝』を膝において読んでいる女は、顔を上げると傍らの小野に向って問いかける。
「この女は羅馬へ行くつもりなんでしょうか」
シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』に描かれたクレオパトラという美しい女の運命に自らを重ねるように、藤尾は小野に謎をかけて微笑んでいる。
27歳の孤児で文学士の小野清三と哲学を学ぶ甲野欽吾、それに28才で外交官を目指す宗近一という3人の青年をめぐって、資産家の甲野の腹違いの妹である美貌の藤尾が母親と組んで小野との恋の策謀を企てながら、裏切られて憎悪と嫉妬のなかで頓死する――。
恩師の娘の小夜子に慕われているのに藤尾の美貌に惹かれて引き裂かれた小野を、甲野家の入り婿に迎えようと考えた藤尾の母親は、当時男女の逢瀬の場所として知られた大森での密会を画策する。しかし、直前に宗近から説得された小野が道義に目覚めてこの約束を反故にした。藤尾は裏切りに対する屈辱と怒りに激情を爆発させる。
小野が小夜子を伴って甲野の自宅を訪れ結婚を伝えると、藤尾の憤怒は頂点に達した。それまで「男選び」の証として手元に持ち続けていた父の形見の金時計を、あてつけるように傍らの宗近に渡すと、彼はそれをそのまま暖炉に投げ捨てて壊してしまう。砕け散った金時計を呆然と眺めていた藤尾は、その場に卒倒して息を引き取る、という顛末である。
こうして筋書きをたどってみれば、これは同時代の尾崎紅葉の『金色夜叉』を彷彿とさせる勧善懲悪の通俗小説の体裁をとっている。もちろん、「東京朝日新聞」の小説記者として漱石が初めて取り組む連載小説であるから、メディアを通して広く江湖の読者を意識したものであったからである。この小説を当て込んで、三越呉服店が「虞美人草模様」の浴衣を売り出して評判となるなど、今日のメディアミックスの先駆けでもあった。
とはいえ漱石が女主人公の藤尾を「嫌な女」と呼び、「しまいには殺す」とまでいう悪女として造形した理由は、単純な勧善懲悪の思想からではもちろんない。
〈美しき女の二十を越えて夫なく、空しく一二三を数えて、二十四の今日まで嫁がぬは不思議である。春院徒に更けて、花影欄(*9)に酣なるを、遅日早く尽きんとする風情と見て、琴を抱いて恨み顔なるは、嫁ぎ後れたる世の常の女の習いなるに、塵尾(*10)に払う折々の空音に、琵琶らしき響を琴柱に聴いて、本来ならぬ音色を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である〉
*9 爛 おばしま(欄干)
*10 塵尾 ほっす(煩悩を払うための法具)