川音のしない部屋で
深夜に執筆
そんな川端に愛された宿が、箱根湯本から至近の塔ノ澤温泉にある。1890(明治23)年に創業された「福住楼」である。
まだ暑さの厳しい折、箱根湯本駅から早川沿いを宿に向かう。15分ほどで千歳橋を渡ると、川風を受けて気温が3度ほども下がったように感じた。この涼感が宿の名物に違いないと実感しつつ、眼の前で威風堂々たる玄関に出迎えられた。建物に入るとさらにひんやりとする。真夏でも冷房は入れていないという。
川沿いの敷地1000坪に17棟の客室が配され、それぞれ半ば独立しているうえ、すべてが異なる意匠の数寄屋風造りになっている。福沢諭吉、夏目漱石、川合玉堂、阪東妻三郎といった名立たる人士に愛されてきたが、お気に入りの部屋が皆違ったというのも頷ける。
渡り廊下ほか、館内にはふんだんに竹材が用いられ、その形状は多種多様なうえ、どれも京都から取り寄せたものだというから驚く。ご主人の澤村恭正さんはこう話す。
「数寄屋建築の安井清先生に観ていただいたところ、これだけの竹材を使うのには、途方もない手間とお金がかかったろうということでした。ぜひ、後世に伝え遺してほしいと」
3階建て総坪数700の館内を観て廻る。多くの客室や広間が、川面の景色や涼風を考慮して建てられる中、「桐」の名がつく5室は川から離れた場所に建つ。うちのひとつ「桐三」が川端の愛した一室である。
10畳間にソファセットの置かれた広縁がつく。よくある旅館の造りと思いきや、逆側に目を転じると、一間ほどの立派な床の間がつき、太くうねる中柱には袖壁まで備わっている。さらに、地袋上の凝った意匠の障子戸には、庭に面した丸窓が映し出されていた。まさに数寄屋風となっているのだ。
ただ、川音はまったく聞こえてこない。そしてそれが、川端がこの部屋を好んだ理由でもあった。
戦前、戦後を通じ、川端は予約もなしにふらりと現れ、新聞や雑誌に寄稿する短い原稿を書いていた。執筆は深夜、みなが寝静まってからのため、それに付き合う女中さんは難儀だった。朝になると引き戸の間に原稿が挟まれており、それを朝一番でやってくる編集者がもって帰るのが常だったという。2、3日滞在するや、ひとり帰っていった。
川端はなぜ、川沿いの賑やかな宿に足を運びながら、音のない奥まった部屋にこだわったのか。幼くして父母を亡くし、祖母、姉、祖父と、15歳にしてすべて亡くした薄幸を思えば、人恋しさを抱えつつ、終生まとわりついた孤独な心性に考えが及ばざるを得ない。さらに言えば、目に留まるものを冷徹なまでに観察し、自己の感性にぴたりとはまる言葉を探し求めずにはいられなかったこの作家の性には、音のない空間が必要だったのか。誘蛾灯に引き寄せられるように、この一室を求めたのだろうか。『雪国』の繊細な描写が思い出されて仕方がなかった。
戦後の川端は、『千羽鶴』『山の音』『古都』といった名作を精力的に発表し、また、日本ペンクラブの会長となって、東京で世界大会を開催するなど、文壇の牽引車となって活躍する。一方で、その作風は『眠れる美女』にみられるように、孤独かつ虚無的に澄み渡ってゆく。1968(昭和43)年にノーベル賞を受けると、4年後、自ら命を絶った。その理由はいまもって明らかではない。