──飯塚さんが稲嶺さんの「時代の証言者」をまとめようと思ったきっかけは何だったのか。
飯塚 私が東京から那覇に赴任した1998年夏は大田昌秀さんが知事をしていた。赴任後すぐに沖縄県知事選があり、稲嶺さんが当選した。それから2年間、那覇に駐在し、沖縄サミット終了後、東京の政治部に戻ったが、この間、様々なことを学ぶ機会を得た。稲嶺さんはじめ、沖縄のいろいろな立場の人たちから貴重なことを教えていただいた。その後、東京の政治部や国際部、ワシントンやロンドンで特派員なども務めたが、その間も沖縄はつかず離れず、私の中で一貫してウォッチしてきたテーマだった。沖縄で仕事をしたことは、私の新聞記者としての原点と言っても過言ではない。
私が学んだ最大の論点は、沖縄の歴史は「日本の政治の裏面史」だということだ。東京にいてはわからないことも多い。本土の人が知らなければならないことがたくさんあるのだが、あまりにも知られていないことにショックを受け、なんとかしたいとずっと思っていた。
実は稲嶺さんの回顧録は、琉球新報社から『稲嶺惠一回顧録 我以外皆我が師』が2011年に出版されている。これは素晴らしい著書だ。
ただ、私の中では、稲嶺さんの半生は沖縄の歴史そのものであり、もっと広く知ってほしいとの思いがあった。そこで、全国紙である『読売新聞』の強みを生かし、改めて自分で取材して連載し、日本全国の読者に伝えようと思った次第である。
──稲嶺さんは飯塚さんからこのお話を聞いた時、どのような思いだったのか。
稲嶺 引退してから20年近くになる。90歳を過ぎたこの私に声をかけていただき、大変驚いたとともに、率直にうれしかった。飯塚さんとは約2年間のお付き合いであったが、自然体で懐に入ってくる魅力があった。本書の中にもあるが、当時の野中広務官房長官が「サミットは、沖縄に決めようと思う」という一報をまず伝えたのは飯塚さんであった。つまり、それだけ信頼されていたということだ。その後、飯塚さんは海外駐在も経験するなど、国際的かつ大局的な視野で物事を見る目にはいつも感心している。
「唯一無二」のサミット
大きかった小渕首相の存在感
──2000年の沖縄サミットとは、お二人にとってどのようなものだったか。特に県知事がアメリカのクリントン大統領と向き合うというのは大変な重圧だったのではないかと思う。
稲嶺 沖縄サミットは、「唯一無二」のサミットだった。それを終始支えてくれたのは、サミット開催直前の4月に脳梗塞で重態となり、5月に逝去された小渕恵三首相だった。小渕さんの存在なくしてこのサミットは語れない。
小渕さんは早稲田大学の学生時代、「沖縄研究会」のメンバーだった。当時、沖縄の「稲門会」(早大の同窓組織)会長だったのが私の父の一郎で、その縁でうちに泊まったこともあった。
当時はアメリカ統治時代の沖縄で、小渕さんは、同世代だった翁長助裕さん(後に沖縄県知事になった翁長雄志氏の兄)やその仲間とともに、沖縄本島南部で遺骨収集活動に熱心に参加していた。また、ある時には本土復帰運動支援にも携わっていた。
小渕さんは沖縄に対する思い入れが違う。ウチナーンチュの悩みや歴史、考え方を理解し、「沖縄のために何かできないか」という思いをずっと持っていた。そして首相となり、サミットの会場をどこにするか、自身で決める必要があった。小渕さんとしては、なんとしても沖縄で開催したいという思いがあった。だから私は、その思いを受け継ぎ、全力で取り組んだ。北の端から南の端まで、全県民がサミットに協力する、保革を超えて、超党派でまとまる─。つまり「オール沖縄」を目指した。ありがたいことに、20万人以上の署名も集まった。全県にサミット協力会員が広がった。
