2026年3月24日(火)

WEDGE SPECIAL OPINION

2026年3月24日

稲嶺氏が常に感じていた
「微妙な差」とは?

──本書の「はじめに」で稲嶺さんは『飯塚さんと微妙な差を常に感じていた』と書いている。ありがたいことに本書は昨年11月に『沖縄タイムス』の書評欄でも紹介されたが、そこでは沖縄と本土との感覚のズレと接点がどこにあるのかを深掘りしてほしかった旨の記載があった。どのような「差」だったのか。

稲嶺 実は、本書のタイトルを「二つの和解」とすることに、当初は違和感があった。具体的に申し上げると、例えば、16年に当時のオバマ大統領が広島を訪問し、被爆者の方と抱擁したことは、日本とアメリカとの「一つの和解」であった。

 私が幼かった頃は、「鬼畜米英」などと頭に叩き込まれていたが、沖縄では、終戦直後、県民を救ってくれて、飯を食わせてくれたのは、アメリカだった。つまり、アメリカに対する反感は、終戦直後はそう強くなかったという記憶がある。

 むしろ、怒りや恨みは旧日本軍に向いていたように思う。日本軍がいたために沖縄の人々は犠牲になったともいえる。それが戦後沖縄の革新陣営の主張の柱にもなった。

 一方で、終戦後の沖縄を統治したのはアメリカの占領軍であった。そして、その頃から沖縄での反米感情は一気に膨れ上がった。

 旧日本軍に対する怒りや恨みの感情は根強く、日本への復帰後も、自衛隊やその家族はどこへ行ってもいじめられ、子どもたちを学校に入れない、あるいは地域のお祭りも自衛隊員の参加は徹底的に断るなど、本当に大変だった。

 それでも、自衛隊の方々は歯を食いしばり、地域に溶け込もうと懸命に努力した。また、彼らは沖縄の各地で黙々と不発弾の処理を続け、離島を中心に、犠牲者を出しながらも急患搬送に貢献してくれた。様々な行事にも参加し、信頼を勝ち得ていった。それには50年近くもかかったということだ。

 つまり、沖縄から見るアメリカと、本土から見るアメリカとではその姿は全く異なり、さらに世代によってもその見え方は曲折してくる。

 さらに歴史をたどれば、琉球の時代か日本の時代か、という焦点もある。第3代沖縄県知事の西銘順治さんは「大和人になりたくて、なり切れない」のが沖縄の心だと言った。ところが、息子(西銘恒三郎・現衆院議員)の代になれば、そういう思いは「自分にはない」と言い切る。

 親子でさえ考えが異なることからも分かるように、「和解」とは単純なものではなく、「沖縄はこうだ」と一括りにして語ってほしくないという微妙な気持ちがある。それが「差」と言えるのかもしれない。

 沖縄の場合、アメリカと沖縄の関係は非常に微妙であり、時代によってもその認識が異なっている。共通して言えるのは「反基地=反米」ではないという意識構造だ。

飯塚 私自身の中にもそうした差を常々感じていたところではある。特に本土の人間はどうしても、基地問題を中心に、アメリカと沖縄県民が対立構図にあると捉えがちだ。とりわけ、米兵の少女暴行事件に抗議して開かれた1995年の「沖縄県民総決起大会」の印象は今も強く残っている。

 8万5000人の参加者で埋まったあの大会は、いわゆる革新左派の人だけが集まって反対運動をしたものではなく、イデオロギーを超えたものだった。

 しかし、こうした「米軍基地」に対する反感と、「アメリカ」に対する反感とでは、稲嶺さんの言う通り、同じものとして受け取れない。

 米軍基地が沖縄に集中し続けることに対する見解も、常に議論が割れている。日本政府の様々な不作為は認識しつつも、対中国や安全保障の視点から地理的、軍事的な重要性を説く人もいれば、基地が集中するからこそ危険にさらされるという指摘もある。そうしたことも含めて、沖縄とアメリカ、そして日本本土と沖縄のそれぞれの和解をどうにか進めたいというのが私の願いである。

 和解の原点とは、まずは「記憶に寄り添うこと」であると思う。それが十分にできずに、沖縄と本土が分断すること、沖縄県内で反米運動や反米軍基地運動が起きること。これこそが中国が一番願っていることであり、結局は中国を利することにもつながることを、我々は強く意識しなければならない。今年9月に控える沖縄県知事選も、中国は大いに関心を持っていると思う。


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