1979年から現在まで続く米国のイラン経済制裁
本編第1回(『抑圧された日常生活“イスラム体制国家イラン”は持続可能か』)にあるように、筆者は1989年から1998年まで約10年間駐在員として、または長期出張により商社マンとしてイランのビジネスに携わった。当時から不思議に思っていたイランでの日本・中国・米国それぞれの企業の関わり方を振り返ってみたい。それは戦闘終了後のイランの戦後復興プロジェクトのあり方にも何か示唆を与えるように思う。
1979年のイラン革命以来現在に至るまで、米国は時期により濃淡はあるが、常に対イラン制裁を課して来た。それゆえ1979年以来米国は米国企業のイランとの取引を禁止している。
イランを巡る制裁には他の西側諸国も加わった時期もある。また米国がイランと取引する外国企業・外国人に対して在米資産凍結や米国での活動の制限・禁止(米国市場からの排除を含む)などにより実質当該外国企業のイラン・ビジネスを不可能にする一方的域外適用制裁(Unilateral Extra-territorial Sanctions)を発動してきた。例えば、日本はかつて大量のイラン原油を輸入していたが、第一次トランプ政権時の米国の一方的域外適用制裁により、日本企業はイラン原油輸入停止を余儀なくされている。
こうした米国の経済制裁が長くイランの経済発展を阻害してきた。他方でイランもイラン革命で米国企業を追放して以降、米国企業との取引を禁じている。テヘランの街角には至る所に「アメリカに死を」(Down with USA)のスローガンが躍っていたことを思い出す。
イラン革命後もイラン人の一番人気はコカ・コーラとマールボロ
1989年に赴任して最初に不思議に感じたのがコカ・コーラである。町中で瓶入りのコカ・コーラが売られており、役所主催のパーティーでも飲み物は瓶コーラだった。米国のコカ・コーラが現地生産していたものを接収して現地資本が引き継いだのだろう。むろんコカ・コーラの商標は無断使用だろう。
イスラム教国ではどこでも煙草が必需品であるが、イランもヘビースモーカー大国だ。イランで断トツにポピュラーなのは密輸されたマールボロ赤箱であった。現在に至るまでアメリカの大手煙草会社にとり、イランはドル箱市場なのだ。
