誰が「社会問題」を決めているのか
ここで問われるべきは、報道の一貫性だと筆者は思う。「何を問題とするか」というアジェンダ(議題)設定は、報道機関が持つ力のひとつと言える。
今回の報道が取材対象によって変わってしまったのかどうかは定かではないものの、そうした疑念を持たれてしまっては、報道の信頼性を下げてしまう。「事実の伝達」と「特定立場の擁護」の境界線はどこにあるのか。問いとして立てておく必要があるだろう。
それぞれの事故後の対応を見ると、誰も責任を取らない、学校側も誰も処分しない。問われるべき当事者性から距離を置くものだった。
追及の欠如は、具体的な空白として表れる。辺野古の転覆事故において、事故から7週間を超えても、転覆した2隻のうち1隻の船長の実名は、主要メディアのいずれでも報じられていない。
これは事故報道ではなかなか起こりえないことではないか。磐越道のバス事故では、バス運行会社「蒲原鉄道」の茂野一弘社長へ報道各社が取材をかけ、茂野社長が応じている。商業運送会社の場合、国土交通省や運輸局への許認可記録、業務改善命令の有無といった公的記録が取材起点として機能するため、報道が集中しやすい構造がある。
一方、「ヘリ基地反対協議会」のような市民運動団体の場合、行政との接点が少なく情報が取りにくいという事情は確かに存在するかもしれない。だが問題は、それを差し引いても、「誰が乗客を乗せて船を動かしたのか」という最も基本的な問いさえ7週間以上経っても明らかにされていないことである。取材が困難であれば、「取材を申し込んだが回答を得られていない」という一文があってしかるべきだが、それすらないのが現状である。
「被害者」と加害者のすり替え
こうした追及の選択性が偶発的でないことは、地元メディアの動きが示している。たとえば琉球新報社が実行委員会に名を連ねる「沖縄戦の記憶継承プロジェクト」のフィールドワークで、転覆船を運航した団体の共同代表・浦島悦子氏がプログラム非掲載のまま講演の中で転覆事故の件に触れた。
浦島氏は「虚偽情報が山ほど流されている」と述べ、「すごく荒れた海に出たんだということが流布されているが、実は穏やかだったよという海人もいる」と弁明した。また「特に産経新聞とか右派的な週刊誌が、ちょっとしたことに尾ひれはひれをつけて違う方向に持っていって報道している」とも語ったとされる。
また、沖縄タイムスも読者投稿欄で、「天国から二人の声が聞こえてくる。『誹謗中傷にめげず、抗議行動を続けてほしい』と」とする記事を掲載した。
こうした環境の中で、遺族は沈黙を選ばなかった。「知華は、誰かの主張のために沖縄へ行ったわけではありません」「重大な責任を負うべき組織と行動を共にしている人が、知華をまるで自分たちの仲間であったかのように語ることは到底、許容できません」と発信し、事実上の反論をした。これによって沖縄タイムスには批判が殺到し、オンライン版などで当該記事を撤回している。
報道機関などが伝える事実によって当事者らが意図しない物語が生まれる。それを、もっとも辛い立場にある遺族が直接否定しなければならなかった。
こうした状況が、なぜ起きるのか。事故そのものではなく、その後の誤報・偏報・物語化、すなわち「情報」によって当事者が受けるこうした二次的な被害を、筆者は「情報災害」と呼ぶ。
