2024年4月27日(土)

世界潮流を読む 岡崎研究所論評集

2015年1月27日

 しかし、すべての市民が法律の範囲内で自由に意見を述べる基本的権利は尊重されるべきである。宗教的信条が高まり、信仰がますます政治化しているいま、すべての宗教は、意見、分析、風刺を受け入れなければならない、と述べています。

出 典:Washington Post ‘Charlie Hebdo stands solidly for free expression. The West mustdo no less’ (January 7, 2015)
http://www.washingtonpost.com/opinions/charlie-hedbo-stood-solidly-for-free-expressi
on-the-west-must-do-no-less/2015/01/07/40b2a178-9685-11e4-8005-1924ede3e54a_sto
ry.html

Financial Times ‘A murderous attack on freedom of expression’ (January 7, 2015)
http://www.FT.com/intl/cms/s/2/08e3a53a-966c-11e4-922f-00144feabdc0.html

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 今回の銃撃事件に関し、各国のメディアは口をそろえて、脅しに屈せず、表現の自由を貫いたシャルリー・エブドの行動を称賛し、民主主義の根幹である表現の自由はあくまで守るべきであると述べています。それはごく自然な、当然の反応です。しかしその中にあって、フィナンシャル・タイムズ紙 の言うように、信仰と表現の自由の間には対立があることも想起すべきです。

 ワシントン・ポスト紙は、イスラム教徒を不当に挑発したり、怒らせたりするような表現には反対してきたと言い、フィナンシャル・タイムズ紙 は、宗教的信条を揶揄する場合の分別と妥当性は議論されるべきである、と言っています。つまり、無条件で宗教を揶揄すべきではないということです。

 この場合、何が不当な挑戦になり、揶揄する場合の分別と妥当性とは何かが問題となりますが、その識別は立場により異なります。イスラム教の場合は、イスラム教そのもの、あるいは預言者ムハンマドに対する揶揄に対して極めて不寛容です。西側の基準で考えれば表現の自由の範囲内であっても、イスラムの立場からすればイスラムに対する侮辱とみなされます。この点は考慮する必要があるでしょう。これは自己検閲とは違います。自己検閲は、暴力を恐れて自制するもので、これはイスラム過激派の思うつぼです。ワシントン・ポスト紙が言うように恥ずべきものであり、避けるべきものです。しかし、イスラム教徒を不当に挑発しないようにすることは、表現の自由をゆがめることにはならず、無用な暴力を避けるために考慮する必要があるでしょう。

  
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